で見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語《ひとりごと》を言わあ。」
「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、狂人《きちがい》の癖にしやあがって、(場末)だなんて吐《ぬか》しやがって。」と歯入屋が、おはむき[#「おはむき」に傍点]の世辞を云って、女房《かみさん》達をじろりと見る奴《やつ》。
「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、按摩《あんま》ン許《とこ》が蒲生鉄斎、たつじんだ、土瓶だとよ、薬罐《やかん》めえ、笑《わら》かしやがら。何か悪戯《いたずら》をしてやろうと思って、うしろへ附いちゃあ歩行《ある》くから、大概口上を覚えたぜ。今もね、そこへ来たんぜ。」
「来るえ。」と、一所に云う。
「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、駈抜《かけぬ》けて先へ来たんだ。――そら、そら、来たい、あの爺だ――ね。」
 と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被《かぶ》らず、洋傘《こうもり》を支《つ》いて、据腰《すえごし》に与五郎老人、うかうかと通りかかる。
「あれ! 何をする。」
 と言う間も無かった。……おしめも褌《ふんどし》も一所に掛けた、路地の物干棹《ものほしざお》を引《ひっ》ぱずすと、途端《みちばた》の与五郎の裾《すそ》を狙《ねら》って、青小僧、蹈出《ふみだ》す足と支《つ》く足の真中《まんなか》へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打った時、
「や、」と倒れながら、激しい矢声《やごえ》を、掛けるが響くと、宙で撓《た》めて、とんぼを切って、ひらりと翻《かえ》った。古今の手練、透かさぬ早業《はやわざ》、頭《ず》を倒《さかさ》に、地には着かぬ、が、無慚《むざん》な老体、蹌踉《よろよろ》となって倒れる背を、側の向うの電信柱にはたとつける、と摺抜《すりぬ》けに支えもあえず、ぼったら焼の鍋《なべ》を敷いた、駄菓子屋の小店の前なる、縁台に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と落つ。
 走り寄ったは婦《おんな》ども。ばらばらと来たのは小児《こども》で。
 鷺《さぎ》の森の稲荷《いなり》の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞《しま》を乱して駈寄《かけよ》る。
「怪我《けが》は。」
「吉祥院前の接骨医《ほねつぎ》へ早く……」
「お怪我は?」
 与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、
「やあ、小児《こども》たち、笑わぬか、笑え、あはは、と笑え。爺《じい》が釣狐の舞台もの、ここへ運べば楽なものじゃ――我は化けたと思えども、人はいかに見るやらん。」
 と半眼に、従容《しょうよう》として口誦《こうじゅ》して、
「あれ、あの意気が大事じゃよ。」
 と、頭《こうべ》を垂れて、ハッと云って、俯向《うつむ》く背《せな》を、人目も恥じず、衝《つ》と抱いて、手巾《ハンカチ》も取りあえず、袖にはらはらと落涙したのは、世にも端麗《あでやか》なお町である。
「お手を取ります、お爺様《じいさま》、さ、私と一所に。」

       十四

 円《まる》に桔梗《ききょう》の紋を染めた、厳《いか》めしい馬乗提灯《うまのりぢょうちん》が、暗夜《くらやみ》にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々《つやつや》と映って、ほんのりと明《あかる》い顔は、お町である。
 と、眉に翳《かざ》すようにして、雪の頸《うなじ》を、やや打傾けて優しく見込む。提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗《しゅぬり》の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅《くれない》の色を染めた錦木《にしきぎ》の風情である。
 一方は灰汁《あく》のような卵塔場、他は漆《うるし》のごとき崖である。
 富士見の台なる、茶枳尼天《だきにてん》の広前で、いまお町が立った背後《うしろ》に、
 此《こ》の一廓《かく》、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也《なり》。地主。
 と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家《うち》の背後《うしろ》に当る、が、その間に寺院《てら》のその墓地がある。突切《つッき》れば近いが、避《よ》けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳《やぶだたみ》の前を抜ける事になる。
 お町は片手に、盆の上に白い切《きれ》を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛《よだれかけ》で、その中から目の釣った、尖《とが》った真蒼《まっさお》な顔の見えるのは、青石の御前立《おんまえだち》、この狐が昼も凄い。
 見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜《くぐ》ると、一体、聖心女学院の生徒で、昼は袴《はかま》を穿
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