あった。
「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の間《あい》の狂言のお心得あろうとはかつて存ぜぬ。
あるいは、何かの因縁で、斯道《このみち》なにがしの名人のこぼれ種、不思議に咲いた花ならば、われらのためには優曇華《うどんげ》なれども、ちとそれは考え過ぎます。
それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。
さりとて痩《や》せたれども与五郎、科《しな》や、振《ふり》は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある、胸にある……
近々とお姿を見、影を去って、跪《ひざまず》いて工夫がしたい! 折入ってお願いは、相叶《あいかな》うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日《ひとなぬか》、二七日《ふたなぬか》、お差置きを願いたい。」
「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。
胸を打って、
「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お聞済《ききずみ》が願いたい。
口惜《くちおし》や、われら、上根《じょうこん》ならば、この、これなる烏瓜|一顆《ひとつ》、ここに一目、令嬢《おあねえさま》を見ただけにて、秘事の悟《さとり》も開けましょうに、無念やな、老《おい》の眼《まなこ》の涙に曇るばかりにて、心の霧が晴れませぬ。
や、令嬢《おあねえさま》、お聞済。この通りでござる。」
とて、開いた扇子に手を支《つ》いた。埃《ほこり》は颯《さっ》と、名家の紋の橘《たちばな》の左右に散った。
思わず、ハッと吐息《といき》して、羽織の袖を、斉《ひとし》く清く土に敷く、お町の小腕《こがいな》、むずと取って、引立てて、
「馬鹿、狂人《きちがい》だ。此奴《こいつ》あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工《えかき》に頼まれたら、大切な娘の衣服《きもの》を脱いで、いやさ、素裸体《すッぱだか》にして見せねばならんわ。色情狂《いろきちがい》の、爺《じじい》の癖に。」
十三
「生蕎麦《きそば》、もりかけ二銭とある……場末の町じゃな。ははあ煮たて豌豆《えんどう》、古道具、古着の類《たぐい》。何じゃ、片仮名をもってキミョウニナオル丸《がん》、疝気寸白虫根切《せんきすばくのむしねきり》、となのった、……むむむむ疝気寸白は厭《いと》わぬが、愚鈍を根切りの薬はないか。
ここに、牛豚開店と見ゆる。見世《みせ》ものではない。こりゃ牛鋪《ぎゅうや》じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。
ほう、按腹鍼療《あんぷくしんりょう》、蒲生《がもう》鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨《うらやま》しい。おお、琴曲《きんきょく》教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床《おくゆかし》い事のう。――べ、べ、べ、べッかッこ。」
と、ちょろりと舌を出して横舐《よこなめ》を、遣《や》ったのは、魚勘《うおかん》の小僧で、赤八、と云うが青い顔色《がんしょく》、岡持を振《ぶ》ら下げたなりで道草を食散らす。
三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団《たどん》を干した薪屋《まきや》の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行《や》るのを見ながら、二三人共同栓に集《あつま》った、かみさん一人、これを聞いて、
「何だい、その言種《いいぐさ》は、活動写真のかい、おい。」
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚《ほ》れやあがってね。」
「ああ、あの別嬪《べっぴん》さんの。」
「そうよ、でね、其奴《そいつ》が、よぼよぼの爺《じじい》でね。」
「おや、へい。」
「色情狂《いろきちがい》で、おまけに狐憑《きつねつき》と来ていら。毎日のように、差配の家《うち》の前をうろついて附纏《つきまと》うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大《おおき》な旦那が襟首を持って引摺《ひきずり》出した。お嬢さんが縋《すが》りついて留めてたがね。へッ被成《なさる》もんだ、あの爺を庇《かば》う位なら、俺《おいら》の頬辺《ほっぺた》ぐらい指で突《つつ》いてくれるが可《い》い、と其奴が癪《しゃく》に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴《あしげ》に砂を打《ぶ》っかけて遁《に》げて来たんだ。
それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯《じょうだん》じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、旦《だん》が踏潰《ふみつぶ》して怒ってると、そら、俺《おいら》を追掛《おっか》けやがる斑犬《ぶちいぬ》が、ぱくぱく食《くい》やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」
「分ったよ、昨日は。」
「その前《めえ》もね、毎日だ。どこか
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