》ねたように見えました処、汽車が、ぐらぐらと揺れ出すにつけて、吹散った体《てい》になって消えました、と申すが、怪しいでは決してござらぬ。居所が離れ陰気な部屋の深いせいで、また寂《さびし》い汽車でござったのでの。
 さて、品川も大森も、海も畠《はた》も佳《い》い月夜じゃ。ざんざと鳴るわの。蘆《あし》の葉のよい女郎《じょろうし》、口吟《くちずさ》む心持、一段のうちに、風はそよそよと吹く……老人、昼間息せいて、もっての外|草臥《くたび》れた処へ酔がとろりと出ました。寝るともなしに、うとうととしたと思えば、さて早や、ぐっすりと寝込んだて。
 大船、おおふなと申す……驚破《すわ》や乗越す、京へ上るわ、と慌《あわただ》しゅう帯を直し、棚の包を引抱《ひんだ》いて、洋傘《こうもり》取るが据眼《すえまなこ》、きょろついて戸を出ました。月は晃々《こうこう》と露もある、停車場のたたきを歩行《ある》くのが、人におくれて我一人……
 ひとつ映りまする我が影を、や、これ狐にもなれ、と思う心に連立って、あの、屋根のある階子《はしご》を上る、中空《なかぞら》に架《か》けた高い空橋《からはし》を渡り掛ける、とな、令嬢《おあねえさま》、さて、ここじゃ。
 橋がかりを、四五|間《けん》がほど前へ立って、コトコトと行《ゆ》くのが、以前の和尚。痩《や》せに痩せた干瓢《かんぴょう》、ひょろりとある、脊丈のまた高いのが、かの墨染の法衣《ころも》の裳《もすそ》を長く、しょびしょびとうしろに曳《ひ》いて、前かがみの、すぼけた肩、長頭巾《もっそう》を重げに、まるで影法師のように、ふわりふわりと見えます。」
 と云うとふとそこへ、語るものが口から吐いた、鉄拐《てっかい》のごとき魍魎《もうりょう》が土塀に映った、……それは老人の影であった。
「や、これはそも、老人《わし》の魂《たま》の抜出した形かと思うたです、――誰も居ませぬ、中有《ちゅうう》の橋でな。
 しかる処、前途《ゆくて》の段をば、ぼくぼくと靴穿《くつばき》で上《あが》って来た駅夫どのが一人あります。それが、この方へ向って、その和尚と摺違《すれちご》うた時じゃが、の。」
 与五郎は呼吸《いき》を吐《つ》いて、
「和尚が長い頭巾の頭《ず》を、木菟《みみずく》むくりと擡《もたげ》ると、片足を膝頭《ひざがしら》へ巻いて上げ、一本の脛《すね》をつッかえ棒に、黒い尻をはっと振ると、組違えに、トンと廻って、両の拳《こぶし》を、はったりと杖に支《つ》いて、
(横須賀行はこちらかや。)
 追掛《おっか》けに、また一遍、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛を突支棒《つッかえぼう》に、黒い尻をはっと揺《ゆす》ると、組違えにトンと廻って、
(横須賀行はこちらかや。)
 と、早や此方《こなた》ざまに参った駅夫どのに、くるりと肩ぐるみに振向いた。二度見ました。痩《やせ》和尚の黄色がかった青い長面《ながづら》。で、てらてらと仇光《あだびか》る……姿こそ枯れたれ、石も点頭《うなず》くばかり、行《おこない》澄《すま》いた和尚と見えて、童顔、鶴齢《かくれい》と世に申す、七十にも余ったに、七八歳と思う、軽いキャキャとした小児《こども》の声。
 で、またとぼとぼと杖に縋《すが》って、向う下《さが》りに、この姿が、階子段に隠れましたを、熟《じっ》と視《み》ると、老人思わず知らず、べたりと坐った。
 あれよあれよ、古狐が、坊主に化けた白蔵主《はくぞうす》。したり、あの凄《すご》さ。寂《さびし》さ。我は化けんと思えども、人はいかに見るやらん。尻尾を案じた後姿、振返り、見返る処の、科《こなし》、趣《おもむき》。八幡《はちまん》、これに極《きま》った、と鬼神が教《おしえ》を給《たも》うた存念。且つはまた、老人が、工夫、辛労《しんろう》、日頃の思《おもい》が、影となって顕《あらわ》れた、これでこそと、なあ。」
 与五郎、がっくりと胸を縮めて、
「ああ、業《わざ》は誇るまいものでござる。
 舞台の当日、流儀の晴業《はれわざ》、一世の面目《めんぼく》、近頃衰えた当流にただ一人、(古沼の星)と呼ばれて、白昼にも頭が光る、と人も言い、我も許した、この野雪与五郎。装束|澄《すま》いて床几《しょうぎ》を離れ、揚幕を切って!……出る! 月の荒野《あれの》に渺々《びょうびょう》として化法師の狐ひとつ、風を吹かして通ると思《おぼ》せ。いかなこと土間も桟敷《さじき》も正面も、ワイワイがやがやと云う……縁日同然。」

       十二

「立って歩行《ある》く、雑談《ぞうだん》は始まる、茶をくれい、と呼ぶもあれば、鰻飯《うなぎめし》を誂《あつら》えたにこの弁当は違う、と喚《わめ》く。下足の札をカチカチ敲《たた》く。中には、前番《まえ》のお能のロンギを、野声を放って習うもござる。
 が、おのれ見よ
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