さい、これで失礼しよう。」
「あ、もし。さて、また。」
「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」

       十

 与五郎は、早や懐手をぶりりと揺《ゆす》って行こうとする、家主に、縋《すが》るがごとく手を指して、
「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……令嬢《おあねえさま》に折入ってお願いの儀が有りまして、幾重にも御遠慮は申しながら、辛抱に堪えかねて罷出《まかりで》ました。
 次第《わけ》と申すは、余の事、別儀でもござりませぬ。
 老人、あの当時、……されば後月《あとつき》、九月の上旬。上野辺のある舞台において、初番に間狂言《あいきょうげん》、那須《なす》の語《かたり》。本役には釣狐《つりぎつね》のシテ、白蔵主《はくぞうす》を致しまする筈《はず》。……で、これは、当流においても許しもの、易からぬ重い芸でありましての、われら同志においても、一代の間に指を折るほども相勤めませぬ。
 近頃、お能の方は旭影《あさひかげ》、輝く勢《いきおい》。情《なさけ》なや残念なこの狂言は、役人《やくしゃ》も白日の星でござって、やがて日も入り暗夜《やみよ》の始末。しかるに思召しの深い方がござって、一《ひと》舞台、われらのためにお世話なさって、別しては老人にその釣狐|仕《つかまつ》れの御意じゃ。仕るは狐の化《ばけ》、なれども日頃の鬱懐《うっかい》を開いて、思うままに舞台に立ちます、熊が穴を出ました意気込、雲雀《ひばり》ではなけれども虹《にじ》を取って引く勢《いきおい》での……」
 と口とは反対《うらはら》、悄《しお》れた顔して、娘の方に目を遣《や》って、
「貴女《あなた》に道を尋ねました、あの日も、実は、そのお肝入り下さるお邸へ、打合せ申したい事があって罷出る処でござったよ。
 時に、後月《あとつき》のその舞台は、ちょっと清書にいたし、方々《かたがた》の御内見に入れますので、世間晴れての勤めは、更《あらた》めて来《きたる》霜月の初旬《はじめ》、さるその日本の舞台に立つ筈《はず》でござる。が、剣《つるぎ》も玉も下磨きこそ大事、やがては一拭いかけまするだけの事。先月の勤めに一方ならず苦労いたし、外を歩行《ある》くも、から脛《ずね》を踏んでとぼつきます……と申すが、早や三十年近う過ぎました、老人が四十代、ただ一度、芝の舞台で、この釣狐の一役を、その時は家元、先代の名人がアドの猟人《かりゅうど》をば附合うてくれられた。それより中絶をしていますに因って、手馴《てな》れねば覚束《おぼつか》ない、……この与五郎が、さて覚束のうては、余はいずれも若い人《じん》、まだ小児《こども》でござる。
 折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の可懐《なつかし》さに、あの日、その邸の用も首尾すまいて、芝の公園に参って、もみじ山のあたりを俳徊《はいかい》いたし、何とも涙に暮れました。帰りがけに、大門前の蕎麦屋《そばや》で一酌傾け、思いの外の酔心《よいごころ》に、フト思出しましたは、老人一|人《にん》の姪《めい》がござる。
 これが海軍の軍人に縁付いて、近頃相州の逗子《ずし》に居《お》ります。至って心の優しい婦人で、鮮《あたら》しい刺身を進じょう、海の月を見に来い、と音信《おとずれ》のたびに云うてくれます。この時と、一段思付いて、遠くもござらぬ、新橋駅から乗りました。が、夏の夜《よ》は短うて、最早や十時。この汽車は大船が乗換えでありましての、もっとも両三度は存じております。鎌倉、横須賀は、勤めにも参った事です――
 時に、乗込みましたのが、二等と云う縹色《はなだいろ》の濁った天鵝絨《びろうど》仕立、ずっと奥深い長い部屋で、何とやら陰気での、人も沢山《たんと》は見えませいで、この方、乗りました砌《みぎり》には、早や新聞を顔に乗せて、長々と寝た人も見えました。
 入口の片隅に、フト燈《あかり》の暗い影に、背屈《せくぐ》まった和尚がござる! 鼠色の長頭巾《もっそう》、ト二尺ばかり頭《ず》を長う、肩にすんなりと垂《たれ》を捌《さば》いて、墨染の法衣《ころも》の袖を胸で捲《ま》いて、寂寞《じゃくまく》として踞《うずくま》った姿を見ました……
 何心もありませぬ。老人、その前を通って、ずっとの片端、和尚どのと同じ側の向うの隅で、腰を落しつけて、何か、のかぬ中の老和尚、死なば後前《あとさき》、冥土《めいど》の路の松並木では、遠い処に、影も、顔も見合おうず、と振向いて見まするとの……」
 娘は浅葱《あさぎ》の清らかな襟を合す。
 父爺《おやじ》の家主は、棄てた楊枝《ようじ》を惜しそうに、チョッと歯ぜせりをしながら、あとを探して、時々|唾《つば》吐く。

       十一

「早や遠い彼方《あなた》に、右の和尚どの、形|朦朧《もうろう》として、灰をば束《つか
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