。この邸町、御宅の処で、迷いに迷いました、路を尋ねて、お優しく御懇《ごねんごろ》に、貴女にお導きを頂いた老耄でござるわよ。」
と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど莞爾々々《にこにこ》する。
「の、令嬢《おあねえさま》。」
「ああ、存じております。」
鶴は裾《すそ》まで、素足の白さ、水のような青い端緒《はなお》。
九
「貴女はその時、お隣家《となり》か、その先か、門に梅の樹の有る館《やかた》の前に、彼家《あすこ》の乳母《ばあや》と見えました、円髷《まるまげ》に結うた婦《おんな》の、嬰坊《あかんぼ》を抱いたと一所に、垣根に立ってござって……」
と老人は手真似して、
「ちょうちちょうちあわわ、と云うてな、その児《こ》をあやして、お色の白い、手を敲《たた》いておいでなさる。処へ、空車《からぐるま》を曳《ひ》かせて老人、車夫めに、何と、ぶつぶつ小言を云われながら迷うて参った。
尋ねる家《うち》が、余り知れないで、既に車夫にも見離されました。足を曳いて、雷神坂と承る、あれなる坂をば喘《あえ》ぎましてな。
一旦、この辺《あたり》も捜したなれども、かつて知れず、早や目もくらみ、心も弱果《よわりは》てました。処へ、煙硝庫《えんしょうぐら》の上と思うに、夕立模様の雲は出ます。東西も弁《わきま》えぬこの荒野《あれの》とも存ずる空に、また、あの怪鳥《けちょう》の鳶の無気味さ。早や、既に立窘《たちすく》みにもなりましょうず処――令嬢《おあねえさま》お姿を見掛けましたわ。
さて、地獄で天女とも思いながら、年は取っても見ず知らぬ御婦人には左右《そう》のうはものを申し難《にく》い。なれども、いたいけに児《こ》をあやしてござる。お優しさにつけ、ずかずかと立寄りまして、慮外ながら伺いましたじゃ。
が、御存じない。いやこれは然《さ》もそう、深窓に姫御前《ひめごぜ》とあろうお人の、他所《よそ》の番地をずがずがお弁別《わきまえ》のないはその筈《はず》よ。
硫黄《いおう》が島の僧都《そうず》一人、縋《すが》る纜《ともづな》切れまして、胸も苦しゅうなりましたに、貴女《あなた》、その時、フトお思いつきなされまして、いやとよ、一段の事とて、のう。
御|妙齢《としごろ》なが見得もなし。世帯崩しに、はらはらとお急ぎなされ、それ、御家の格子をすっと入って、その時じゃ――その時覚えました、あれなる出窓じゃ――
何と、その出窓の下に……令嬢《おあねえさま》、お机などござって、傍《かたえ》の本箱、お手文庫の中などより、お持出でと存じられます。寺、社《やしろ》に丹《に》を塗り、番地に数の字を記《か》いた、これが白金《しろかね》の地図でと、おおせで、老人の前でお手に取って展《ひら》いて下され、尋ねます家《うち》を、あれか、これかと、いやこの目の疎《うと》いを思遣《おもいや》って、御自分に御精魂な、須弥磐石《しゅみばんじゃく》のたとえに申す、芥子粒《けしつぶ》ほどな黒い字を、爪紅《つまべに》の先にお拾い下され、その清らかな目にお読みなさって……その……解りました時の嬉しさ。
御心の優しさ、御教えの尊さ、お智慧《ちえ》の見事さ、お姿の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たい事。
二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を視《なが》めながら、口の裡《うち》に小唄謡うて、高砂《たかさご》で下りました、ははっ。」
と、踞《しゃが》むと、扇子を前半《まえはん》に帯にさして、両手を膝へ、土下座もしたそうに腰を折って、
「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万|忝《かたじけの》う存じまするぞ。」
「まあ。」
と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝《つ》と見伏せる。
この狂人《きちがい》は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色《がんしょく》で、家主は不承々々に中山高の庇《ひさし》を、堅いから、こつんこつんこつんと弾《はじ》く。
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻《さい》が煩うとる。」
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお饒舌《しゃべり》なさらんが可《い》い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取な
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