たと言いたい。
ねえ、老人。
いやさ、貴公、貴公|先刻《さっき》から、この町内を北から南へ行ったり来たり、のそのそ歩行《ある》いたり、窺《うかが》ったり、何ぞ、用かと云うのだ。な、それだに因ってだ。」
もの云う頬がだぶだぶとする。
「されば……」
「いやさ、さればじゃなかろう。裏へ入れば、こまごまとした貸家もある、それはある。が、表のこの町内は、俺《おれ》が許《とこ》と、あと二三軒、しかも大々とした邸だ。一遍通り門札《かどふだ》を見ても分る。いやさ、猫でも、犬でも分る。
一体、何家《どこ》を捜す? いやさ捜さずともだが、仮にだ。いやさ、七《しち》くどう云う事はない、何で俺が門を窺《うかご》うた。唐突《だしぬけ》に窓を覗《のぞ》いたんだい。」
すっと出て、
「さては……」
「何が(さては。)だい。」
と噛《か》んでいた小楊枝《こようじ》を、そッぽう向いて、フッと地へ吐く。
八
老人は膝に扇子《おおぎ》、恭《うやうや》しく腰を屈《かが》め、
「これは御大人《ごたいじん》、お初に御意を得ます、……何とも何とも、御無礼の段は改めて御詫《おわび》をします。
さて、つかん事を伺いまするが、さて、貴方《あなた》に、お一方、お娘御がおいでなさりはせまいか。」
と、思込んだ状《さま》して言った。
「娘……ああ、女のかね。」
唐突《だしぬけ》に他《よそ》の家《うち》の秘蔵を聞くは、此奴《こいつ》怪《け》しからずの口吻《くちぶり》、半ば嘲《あざ》けって、はぐらかす。
いよいよ真顔で、
「されば、おあねえ様であらっしゃります。」
「姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。」
「ははっ、御道理《ごもっとも》千万な儀で。」
「それが、どうしたと云うんですえ。」と、余り老人の慇懃さに、膨れた頬を手で圧《おさ》えた。
「私《てまえ》、取って六十七歳、ええ、この年故に、この年なれば御免を蒙《こうむ》る。が、それにしても汗が出ます。」
と額を拭《ぬぐ》って、咳《しわぶき》をした……
「何とぞいたして御大人、貴方の思召《おぼしめし》をもちまして、お娘御、おあねえ様に、でござる、ちょっと、御意を得ますわけには相成りませぬか。」
「ふん、娘にかい。」
「何とも。」
「変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可《よ》うござす。一体、何の用なんだい。」
「いや、それに就いて罷出《まかりで》ました……無面目に、お家を窺《うかが》い、御叱《おしかり》を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後|申後《もうしおく》れましてござるが、老人は下谷|御徒士町《おかちまち》に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告《なの》る。
「ははあ、茶番かね。」と言った。
しかり、茶番である。が、ここに名告るは惜《おし》かりし。与五郎老人は、野雪《やせつ》と号して、鷺流名誉の耆宿《きしゅく》なのである。
「おお、父上《おとうさん》、こんな処に。」
「お町か、何だ。」
と赭《あか》ら顔の家主が云った。
小春の雲の、あの青鳶《あおとび》も、この人のために方角《むき》を替えよ。姿も風采《なり》も鶴に似て、清楚《せいそ》と、端正を兼備えた。襟の浅葱《あさぎ》と、薄紅梅。瞼《まぶた》もほんのりと日南《ひなた》の面影。
手にした帽子の中山高《ちゅうやまたか》を、家主の袖に差寄せながら、
「帽子をお被《かぶ》んなさいましッて、お母さんが。……裏へ見廻りにいらしったかと思ったんです。」
と、見迎えて一足|退《の》いて、亜鉛塀《トタンべい》に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、
「や、や、や、貴女《あなた》、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳《ひ》いて、縋《すが》りもつかんず、しかも押戴《おしいただ》かんず風情である。
疑《うたがい》と、驚きに、浅葱が細《こまか》く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った瞳は玲瓏《れいろう》として清《すず》しい。
家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被《かむ》って、腕組をずばりとしながら、
「何かい、……この老人《とりより》を、お町、お前知っとるかい。」
「はい。」
と云うのが含み声、優しく爽《さわやか》に聞えたが、ちと覚束《おぼつか》なさそうな響《ひびき》が籠《こも》った。
「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍《みちばた》の老耄《おいぼれ》です。令嬢《おあねえさま》、お見忘れは道理《もっとも》じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます
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