あ》いて、二人を、裡《うち》へ吸って、ずーんと閉った。
保険か何ぞの勧誘員が、紹介人と一所に来たらしい風采《ふうつき》なのを、さも恋路ででもあるように、老人感に堪えた顔色《かおつき》で、
「ああああ、うまうまと入ったわ――女の学校じゃと云うに。いや、この構えは、さながら二の丸の御守殿とあるものを、さりとては羨《うらやま》しい。じゃが、女に逢うには服礼《あれ》が利益《まし》かい。袴に、洋服よ。」
と気が付いた……ものらしい……で、懐中《ふところ》へ顎《あご》で見当をつけながら、まずその古めかしい洋傘《こうもり》を向うの亜鉛塀《トタンべい》へ押《おし》つけようとして、べたりと塗《ぬり》くった楽書《らくがき》を読む。
「何じゃ――(八百半《やおはん》の料理はまずいまずい、)はあ、可厭《いや》な事を云う、……まるで私《わし》に面当《つらあて》じゃ。」
ふと眉を顰《しか》めた、口許が、きりりと緊《しま》って、次なるを、も一つ読む。
「――(小森屋の酒は上等。)ふんふん、ああたのもしい。何じゃ、(但し半分は水。)……と、はてな……?
勘助のがんもどきは割にうまいぞ――むむむむ割にうまいか、これは大沼勘六が事じゃ。」と云った。
ここに老人が呟《つぶや》いた、大沼勘六、その名を聞け、彼は名取《なとり》の狂言師、鷺流《さぎりゅう》当代の家元である。
七
「料理が、まずくて、雁《がん》もどきがうまい、……と云うか。人も違うて、芸にこそよれ、じゃが、成程まずいか、ははっ。」
溜息を深うして、
「ややまた、べらぼうとある……はあ、いかさま、この(――)長いのが、べら棒と云うものか。」
あたかも、差置いた洋傘《こうもり》の柄につながった、消炭《けしずみ》で描《か》いた棒を視《なが》めて、虚気《うつけ》に、きょとんとする処へ、坂の上なる小藪《こやぶ》の前へ、きりきりと舞って出て、老人の姿を見ると、ドンと下りざまに大《おおき》な破靴《やぶれぐつ》ぐるみ自転車をずるずると曳《ひ》いて寄ったは、横びしゃげて色の青い、猿眼《さるまなこ》の中小僧。
「やい!」と唐突《だしぬけ》に怒鳴付《どなりつ》けた。
と、ひょろりとする老人の鼻の先へ、泥を掴《つか》んだような握拳《げんこ》を、ぬっと出して、
「こン爺《じじ》い、汝《てめえ》だな、楽書をしやがるのは、八百半の料理がまずいとは何だ、やい。」
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
と評判の悪垂《あくたれ》が、いいざまに、ひょいと歯を剥《む》いて唾《つば》を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目《のしめ》ともありそうな、柔和な人品穏かに、
「私《わし》は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」
「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生《ぜんしょう》の仇《あだ》が犬になって、あとをつけて追って来た、面《つら》の長い白斑《しろぶち》で、やにわに胴を地に摺《す》って、尻尾を巻いて吠《ほ》えかかる。
「畜生、叱《しッ》……畜生。」と拳《こぶし》を揮廻《ふりまわ》すのが棄鞭《すてむち》で、把手《ハンドル》にしがみついて、さすがの悪垂|真俯向《まうつむ》けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬《ぶち》は波を打って颯《さっ》と追った。
老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは魚《うお》樹に上る景色あり、月海上に浮《うか》んでは兎も波を走るか、……いやいや、面白い事はない。」
で、羽織を出して着たのであった。
頸窪《ぼんのくぼ》に胡摩塩斑《ごましおまだら》で、赤|禿《は》げに額の抜けた、面《つら》に、てらてらと沢《つや》があって、でっぷりと肥った、が、小鼻の皺《しわ》のだらりと深い。引捻《ひんねじ》れた唇の、五十余りの大柄な漢《おとこ》が、酒焼《さけやけ》の胸を露出《あらわ》に、べろりと兵児帯《へこおび》。琉球|擬《まが》いの羽織を被《き》たが、引《ひっ》かけざまに出て来たか、羽織のその襟が折れず、肩をだらしなく両方を懐手《ふところで》で、ぎくり、と曲角から睨《にら》んで出た、(これこれ、いやさ、これ。)が、これなのである。
「何ぞ、老人に用の儀でも。」
と慇懃《いんぎん》に会釈する。
赭顔《あからがお》は、でっぷりとした頬を張って、
「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。
「貴方《あなた》は?」
「いやさ、名を聞くなら其許《そこもと》からと云う処だが、何も面倒だ。俺は小室《こむろ》と云う、むむ小室と云う、この辺《あたり》の家主なり、差配なりだ。それがどうし
前へ
次へ
全16ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング