そこそと立退《たちの》いたのは、日当りの可《い》い出窓の前で。
「違うかの。」と独言《ひとりごと》。変に、跫音《あしおと》を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面《まとも》に見た。
「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」
 あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸《ひとの》しに攫《さら》って持って行《ゆ》かれよう。金魚の木伊乃《みいら》に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、更《あらた》めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、
「迷うまいぞ、迷うな。」
 と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎《いいとが》められている処は、いましがた一度通ったのである。
 そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に畝《うね》って、狭い四角《よつかど》から坂の上へ、にょい、と皺面《しわづら》を出した……
 坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺《おじ》が雲から覗《のぞ》く。眼界|濶然《かつぜん》として目黒に豁《ひら》け、大崎に伸び、伊皿子《いさらご》かけて一渡り麻布《あざぶ》を望む。烏は鴎《かもめ》が浮いたよう、遠近《おちこち》の森は晴れた島、目近《まぢか》き雷神の一本の大栂《おおとが》の、旗のごとく、剣《つるぎ》のごとく聳《そび》えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫《しぶき》か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金《しろがね》の草は深けれども、君が住居《すまい》と思えばよしや、玉の台《うてな》は富士である。

       六

「相違《ちがい》ない、これじゃ。」
 あの怪しげな烏瓜を、坂の上の藪《やぶ》から提灯、逆上《のぼ》せるほどな日向《ひなた》に突出す、痩《や》せた頬の片靨《かたえくぼ》は気味が悪い。
 そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに身体《からだ》ごと、ぐるりと下駄を返して、元の塀についてまた戻る……さては先日、極暑の折を上ったというこの坂で、心当りを確《たしか》めたものであろう。とすると、狙《ねらい》をつけつつ、こそこそと退《の》いてござったあの町中《まちなか》の出窓などが、老人の目的《めあて》ではないか。
 裏《うち》に、眉のあとの美しい、色白なのが居ようも知れぬ。
 それ、うそうそとまた参った……一度|屈腰《かがみごし》になって、静《そっ》と火薬庫の方へ通抜けて、隣邸の冠木門《かぶきもん》を覗《のぞ》く梅ヶ枝の影に縋《すが》って留《とま》ると、件《くだん》の出窓に、鼻の下を伸《のば》して立ったが、眉をくしゃくしゃと目を瞑《ねむ》って、首を振って、とぼとぼと引返して、さあらぬ垣越。百日紅《さるすべり》の燃残《もえのこ》りを、真向《まっこう》に仰いで、日影を吸うと、出損なった嚔《くさめ》をウッと吸って、扇子の隙なく袖を圧《おさ》える。
 そのまま、立直って、徐々《そろそろ》と、も一度戻って、五段ばかり石を築《つ》いた小高い格子戸の前を行過ぎた。が溝《どぶ》はなしに柵を一小間《ひとこま》、ここに南天の実が赤く、根にさふらん[#「さふらん」に傍点]の花が芬《ぷん》と薫るのと並んで、その出窓があって、窓硝子《まどがらす》の上へ真白《まっしろ》に塗った鉄《かね》の格子、まだ色づかない、蔦《つた》の葉が桟に縋って廂《ひさし》に這《は》う。
 思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の皺面《しわづら》で、鼻筋の通ったのを、まともに、伸《のし》かかって、ハタと着《つ》ける、と、颯《さっ》と映るは真紅の肱附《ひじつき》。牡丹《ぼたん》たちまち驚いて飜《ひるがえ》れば、花弁《はなびら》から、はっと分れて、向うへ飛んだは蝴蝶《ちょうちょう》のような白い顔、襟の浅葱《あさぎ》の洩《も》れたのも、空が映って美しい。
 老人転倒せまい事か。――やあ、緑青色の夥間《なかま》に恥《は》じよ、染殿《そめどの》の御后《おんきさい》を垣間《かいま》見た、天狗《てんぐ》が通力を失って、羽の折れた鵄《とび》となって都大路にふたふたと羽搏《はう》ったごとく……慌《あわただ》しい遁《に》げ方して、通用門から、どたりと廻る。とやっとそこで、吻《ほっ》と息。
 ちょうどその時、通用門にひったりと附着《くッつ》いて、後背《うしろ》むきに立った男が二人居た。一人は、小倉《こくら》の袴《はかま》、絣《かすり》の衣服《きもの》、羽織を着ず。一人は霜降《しもふり》の背広を着たのが、ふり向いて同じように、じろりと此方《こなた》を見たばかり。道端《みちばた》の事、とあえて意《こころ》にも留めない様子で、同じように爪《つま》さきを刻んでいると、空の鵄が暗号《あいず》でもしたらしい、一枚びらき馬蹄形《ばていがた》の重い扉《と》が、長閑《のどか》な小春に、ズンと響くと、がらがらぎいと鎖で開《
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