た、あれなる出窓じゃ――
 何と、その出窓の下に……令嬢《おあねえさま》、お机などござって、傍《かたえ》の本箱、お手文庫の中などより、お持出でと存じられます。寺、社《やしろ》に丹《に》を塗り、番地に数の字を記《か》いた、これが白金《しろかね》の地図でと、おおせで、老人の前でお手に取って展《ひら》いて下され、尋ねます家《うち》を、あれか、これかと、いやこの目の疎《うと》いを思遣《おもいや》って、御自分に御精魂な、須弥磐石《しゅみばんじゃく》のたとえに申す、芥子粒《けしつぶ》ほどな黒い字を、爪紅《つまべに》の先にお拾い下され、その清らかな目にお読みなさって……その……解りました時の嬉しさ。
 御心の優しさ、御教えの尊さ、お智慧《ちえ》の見事さ、お姿の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たい事。
 二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を視《なが》めながら、口の裡《うち》に小唄謡うて、高砂《たかさご》で下りました、ははっ。」
 と、踞《しゃが》むと、扇子を前半《まえはん》に帯にさして、両手を膝へ、土下座もしたそうに腰を折って、
「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万|忝《かたじけの》う存じまするぞ。」
「まあ。」
 と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝《つ》と見伏せる。
 この狂人《きちがい》は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色《がんしょく》で、家主は不承々々に中山高の庇《ひさし》を、堅いから、こつんこつんこつんと弾《はじ》く。
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻《さい》が煩うとる。」
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお饒舌《しゃべり》なさらんが可《い》い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取な
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