たち。」
 と連立《つれだ》つて寄る、汀《みぎわ》に居た玉野の手には、船首《みよし》へ掛けつゝ棹《さお》があつた。
 舷《ふなばた》は藍《あい》、萌黄《もえぎ》の翼で、頭《かしら》にも尾にも紅《べに》を塗つた、鷁首《げきしゅ》の船の屋形造《やかたづくり》。玩具《おもちゃ》のやうだが四五人は乗れるであらう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
 聞けば、向う岸の、むら萩《はぎ》に庵《いおり》の見える、船主《ふなぬし》の料理屋には最《も》う交渉済《こうしょうずみ》で、二人は慰《なぐさ》みに、此から漕出《こぎだ》さうとする処《ところ》だつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束《おぼつか》なさに念を押すと、浅くて棹《さお》が届くのだから仔細ない。但《ただ》、一ヶ所|底《そこ》の知れない深水《ふかみず》の穴がある。竜《たつ》の口《くち》と称《とな》へて、此処《ここ》から下の滝の伏樋《ふせどい》に通ずるよし言伝《いいつた》へる、……危《あぶな》くはないけれど、其処《そこ》だけは除《よ》けたが可《よ》からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出《かけだ》して仕誼《ことわり》を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、彼処《あすこ》ですわ。」と玉野が指《ゆびさ》す、大池《おおいけ》を艮《うしとら》の方《かた》へ寄る処《ところ》に、板を浮かせて、小さな御幣《ごへい》が立つて居た。真中の築洲《つきず》に鶴《つる》ヶ|島《しま》と言ふのが見えて、祠《ほこら》に竜神《りゅうじん》を祠《まつ》ると聞く。……鷁首《げきしゅ》の船は、其の島へ志《こころざ》すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
「乗らうかね。」
 と紫玉は最《も》う褄《つま》を巻くやうに、爪尖《つまさき》を揃《そろ》へながら、
「でも何だか。」
「あら、何故《なぜ》ですえ。」
「御幣まで立つて警戒をした処《ところ》があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「否《いいえ》、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断《ふだん》は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞《あまごい》だと言つて立てたんださうですの、此の旱《ひでり》ですから。」

        八

 岸をトンと盪《お》すと、屋形船《やかたぶね》は軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより巧《たくみ》に棹《さお》さす。大池《おおいけ》は静《しずか》である。舷《ふなばた》の朱欄干《しゅらんかん》に、指を組んで、頬杖《ほおづえ》ついた、紫玉の胡粉《ごふん》のやうな肱《ひじ》の下に、萌黄《もえぎ》に藍《あい》を交《まじ》へた鳥の翼の揺《ゆ》るゝのが、其処《そこ》にばかり美しい波の立つ風情《ふぜい》に見えつゝ、船はする/\と滑つて、鶴ヶ島をさして滑《なめら》かに浮いて行く。
 然《さ》までの距離はないが、月夜には柳が煙《けむ》るぐらゐな間《ま》で、島へは棹の数《すう》百ばかりはあらう。
 玉野は上手《あじ》を遣《や》る。
 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静《しずか》な水も、棹に掻《か》かれて何処《どこ》ともなしに波紋が起つた、其の所為《せい》であらう。あの底知らずの竜《たつ》の口《くち》とか、日射《ひざし》も其処《そこ》ばかりはものの朦朧《もうろう》として淀《よど》むあたりに、――微《そよ》との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直《まっすぐ》に立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を転《か》へて、夢のやうに一|寸《すん》二寸づゝ動きはじめた。
 凝《じっ》と、……視《み》るに連れて、次第に、緩《ゆる》く、柔かに、落着いて弧《こ》を描きつゝ、其の円《まる》い線の合《がっ》する処《ところ》で、又スースーと、一寸二寸づゝ動出《うごきだ》すのが、何となく池を広く大きく押拡《おしひろ》げて、船は遠く、御幣《ごへい》は遙《はるか》に、不思議に、段々|汀《みぎわ》を隔《へだた》るのが心細いやうで、気も浮《うっ》かりと、紫玉は、便《たより》少ない心持《ここち》がした。
「大丈夫かい、彼処《あすこ》は渦を巻いて居るやうだがね。」
 欄干《らんかん》に頬杖《ほおづえ》したまゝ、紫玉は御幣を凝視《みつ》めながら言つた。
「詰《つま》りませんわ、少し渦でも巻かなけりや、余《あんま》り静《しずか》で、橋の上を這《は》つてゐるやうですもの、」
 とお転婆《てんば》の玉江が洒落《しゃれ》でもないらしく、
「玉野さん、船を彼方《あっち》へ遣《や》つて見ないか?……」
 紫玉が圧《おさ》へて、
「不可《いけな》いよ。」
「否《いいえ》、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を敲《たた》けば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が然《そ》う言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。
 成程《なるほど》、島を越した向う岸の萩《はぎ》の根に、一人乗るほどの小船《こぶね》が見える。中洲《なかず》の島で、納涼《すずみ》ながら酒宴をする時、母屋《おもや》から料理を運ぶ通船《かよいぶね》である。
 玉野さへ興《きょう》に乗つたらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だつて、こんな池で助船《たすけぶね》でも呼んで覧《み》たが可《い》い、飛んだお笑ひ草で末代《まつだい》までの恥辱ぢやあないか。あれお止《よ》しよ。」
 と言ふのに、――逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木《うき》ほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面《おも》にぴたりとついたと思ふと、罔竜《あまりょう》の頭《かしら》、絵《えが》ける鬼火《ひとだま》の如き一条《ひとすじ》の脈《みゃく》が、竜《たつ》の口《くち》からむくりと湧《わ》いて、水を一文字《いちもんじ》に、射《い》て疾《と》く、船に近づくと斉《ひと》しく、波はざツと鳴つた。
 女優の船頭は棹《さお》を落した。
 あれ/\、其の波頭《なみがしら》が忽《たちま》ち船底《ふなぞこ》を噛《か》むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三|尺《じゃく》あとへ引いて、薄波《うすなみ》を一煽《ひとあお》り、其の形に煽るや否《いな》や、人の立つ如く、空へ大《おおい》なる魚《うお》が飛んだ。
 瞬間、島の青柳《あおやぎ》に銀の影が、パツと映《さ》して、魚《うお》は紫立《むらさきだ》つたる鱗《うろこ》を、冴《さ》えた金色《こんじき》に輝かしつゝ颯《さっ》と刎《は》ねたのが、飜然《ひらり》と宙を躍《おど》つて、船の中へ堂《どう》と落ちた。其時《そのとき》、水がドブンと鳴つた。
 舳《みよし》と艫《とも》へ、二人はアツと飛退《とびの》いた。紫玉は欄干《らんかん》に縋《すが》つて身を転《か》はす。
 落ちつゝ胴《どう》の間《ま》で、一刎《ひとはね》、刎《は》ねると、其のはずみに、船も動いた。――見事な魚《うお》である。
「お嬢様!」
「鯉《こい》、鯉、あら、鯉だ。」
 と玉江が夢中で手を敲《たた》いた。
 此の大《おおい》なる鯉が、尾鰭《おひれ》を曳《ひ》いた、波の引返《ひっかえ》すのが棄《す》てた棹《さお》を攫《さら》つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。

        九

「……太夫様《たゆうさま》……太夫様。」
 偶《ふ》と紫玉は、宵闇《よいやみ》の森の下道《したみち》で真暗《まっくら》な大樹巨木の梢《こずえ》を仰いだ。……思ひ掛《が》けず空から呼掛《よびか》けたやうに聞えたのである。
「一寸《ちょっと》燈《あかり》を、……」
 玉野がぶら下げた料理屋の提灯《ちょうちん》を留《と》めさせて、さし交《かわ》す枝を透かしつゝ、――何事《なにごと》と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
 と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視《み》て居るから、
「まあ、そんな処《とこ》から。」
「然《そ》うだねえ。」
 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳《ひとみ》をそらす時、髷《まげ》に手を遣《や》つて、釵《かんざし》に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡《おうむ》である。
「此が呼んだのか知ら。」
 と微酔《ほろよい》の目元を花《はな》やかに莞爾《にっこり》すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭《いや》ですよ。」
 と仰山《ぎょうさん》に二人が怯《おび》えた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を怯《おびやか》しては不可《いけな》い。滝壺《たきつぼ》へ投沈《なげしず》めた同じ白金《プラチナ》の釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
 池で、船の中へ鯉が飛込《とびこ》むと、弟子たちが手を拍《う》つ、立騒《たちさわ》ぐ声が響いて、最初は女中が小船《こぶね》で来た。……島へ渡した細綱《ほそづな》を手繰《たぐ》つて、立ちながら操《あやつ》るのだが、馴《な》れたもので、あとを二押《ふたおし》三押《みおし》、屋形船《やかたぶね》へ来ると、由《よし》を聞き、魚《うお》を視て、「まあ、」と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた切《きり》、慌《あわただ》しく引返《ひきかへ》した。が、間《ま》もあらせず、今度は印半纏《しるしばんてん》を被《き》た若いものに船を操《と》らせて、亭主らしい年配《としごろ》な法体《ほったい》したのが漕《こ》ぎつけて、「これは/\太夫様《たゆうさま》。」亭主も逸時《いちはや》く其を知つて居て、恭《うやうや》しく挨拶《あいさつ》をした。浴衣《ゆかた》の上だけれど、紋の着いた薄羽織《うすばおり》を引《ひっ》かけて居たが、扨《さ》て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二|尺《しゃく》三|貫目《がんめ》は掛《かか》りませう。」とて、……及《およ》び腰《ごし》に覗《のぞ》いて魂消《たまげ》て居る若衆《わかいしゅ》に目配《めくば》せで頷《うなずか》せて、「恁《か》やうな大魚《たいぎょ》、然《しかし》も出世魚《しゅっせうお》と申す鯉魚《りぎょ》の、お船へ飛込《とびこ》みましたと言ふは、類希《たぐいまれ》な不思議な祥瑞《しょうずい》。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳《ごじんとく》。続きましては、手前|預《あずか》りまする池なり、所持の屋形船《やかたぶね》。烏滸《おこ》がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分《ふくぶん》、徳分《とくぶん》、未曾有《みぞう》の御人気《ごにんき》の、はや幾分かおこぼれを頂戴《ちょうだい》いたしたも同じ儀で、恁《か》やうな心嬉しい事はござりませぬ。尚《な》ほ恁《か》くの通りの旱魃《かんばつ》、市内は素《もと》より近郷《きんごう》隣国《りんごく》、唯《ただ》炎の中に悶《もだ》えまする時、希有《けう》の大魚《たいぎょ》の躍《おど》りましたは、甘露《かんろ》、法雨《ほうう》やがて、禽獣《きんじゅう》草木《そうもく》に到るまでも、雨に蘇生《よみがえ》りまする前表《ぜんぴょう》かとも存じまする。三宝《さんぽう》の利益《りやく》、四方《しほう》の大慶《たいけい》。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝《こころいわ》ひに、此の鯉魚《こい》を肴《さかな》に、祝うて一|献《こん》、心ばかりの粗酒《そしゅ》を差上《さしあ》げたう存じまする。先《ま》づ風情《ふぜい》はなくとも、あの島影《しまかげ》にお船を繋《つな》ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋《おもや》の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着《もんつき》の法然頭《ほうねんあたま》は、最《も》う屋形船の方へ腰を据《す》ゑた。
 若衆《わかいしゅ》に取寄《とりよ》せさせた、調度を控へて、島の柳に纜《もや》つた頃は、然《そ》うでもない、汀《みぎわ》の人立《ひとだち》を遮《さえぎ》るためと、用意の紫《むらさき》の幕を垂れた。「神慮《しんりょ》の鯉魚《りぎょ》、等閑《なおざり》にはいたしますまい。略儀ながら不束《ふつつか》な田舎《いなか
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