い。――其の紫玉が手にした白金《プラチナ》の釵を、歯のうろへ挿入《さしいれ》て欲しいのだと言ふ。
「太夫様《たゆうさま》お手づから。……竜と蛞蝓《なめくじ》ほど違ひましても、生《しょう》あるうちは私《わし》ぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明《おひかり》に照らされますだけでも、此の疚痛《いたみ》は忘られませう。」と、はツはツと息を吐《つ》く。……
 既に、何人《なんぴと》であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所謂《いわゆる》禁厭《まじない》の断り悪《にく》さは、金銭の無心《むしん》をされたのと同じ事――但《ただ》し手から手へ渡すも恐れる……落して釵《かんざし》を貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴女様《あなたさま》の膚《はだ》の移香《うつりが》、脈の響《ひびき》をお釵から伝へ受けたいのでござります。貴方様《あなたさま》の御血脈《おけちみゃく》、其が禁厭《まじない》に成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開《ひら》いた中へ、紫玉は止《や》む事を得ず、手に持添《もちそ》へつつ、釵の脚《あし》を挿入《さしい》れた。
 喘《あえ》ぐわ、舐《しゃぶ》るわ! 鼻息《はないき》がむツと掛《かか》る。堪《たま》らず袖を巻いて唇を蔽《おお》ひながら、勢《いきお》ひ釵とともに、やゝ白《しろ》やかな手の伸びるのが、雪白《せっぱく》なる鵞鳥《がちょう》の七宝《しっぽう》の瓔珞《ようらく》を掛けた風情《ふぜい》なのを、無性髯《ぶしょうひげ》で、チユツパと啜込《すすりこ》むやうに、坊主は犬蹲《いぬつくばい》に成つて、頤《あご》でうけて、どろりと嘗《な》め込む。
 唯《と》、紫玉の手には、づぶ/\と響いて、腐れた瓜《うり》を突刺《つきさ》す気味合《きみあい》。
 指環は緑紅《りょくこう》の結晶したる玉の如き虹《にじ》である。眩《まぶ》しかつたらう。坊主は開《ひら》いた目も閉ぢて、※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》とした顔色《がんしょく》で、しつきりもなしに、だら/\と涎《よだれ》を垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
 不思議な光景《ようす》は、美しき女が、針の尖《さき》で怪しき魔を操《あやつ》る、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶店《ちゃみせ》の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸《いき》を殺して固唾《かたず》を飲んだ。
 ……「あゝ、お有難《ありがた》や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包《しゃみせんづつみ》、がつくりと抜衣紋《ぬきえもん》。で、両掌《りょうて》を仰向《あおむ》け、低く紫玉の雪の爪尖《つまさき》を頂く真似して、「恁《か》やうに穢《むさ》いものなれば、くど/\お礼など申して、お身近《みぢか》は却《かえ》つてお目触《めざわ》り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻《ね》ぢるやうに杖《つえ》で立つて、
「お有難や、お有難や。あゝ、苦《く》を忘れて腑《ふ》が抜けた。もし、太夫様《たゆうさま》。」と敷居を跨《また》いで、蹌踉状《よろけざま》に振向《ふりむ》いて、「あの、其のお釵《かんざし》に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡《おうむ》を視《み》る時、「歯くさが着いては居《お》りませぬか。恐縮《おそれ》や。……えひゝ。」とニヤリとして、
「ちやつとお拭《ふ》きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙《ふところがみ》を、余儀《よぎ》なく一寸《ちょっと》逡巡《ためら》つた。
 同時に、あらぬ方《かた》に蒼《つ》と面《おもて》を背《そむ》けた。

        六

 紫玉は待兼《まちか》ねたやうに懐紙《かいし》を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径《こみち》へ行《ゆ》きましたか、坊主は、と訊《き》いた。父も娘も、へい、と言つて、大方|然《そ》うだらうと言ふ。――最《も》う影もなかつたのである。父娘《おやこ》は唯《ただ》、紫玉の挙動《ふるまい》にのみ気を奪《と》られて居たらう。……此の辺を歩行《ある》く門附《かどづけ》見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足《はだし》で居ました、と言つたので、旅から紛込《まぎれこ》んだものか、其も分らぬ。
 と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々《ちょいちょい》眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。抜いて持つた釵《かんざし》、鬢摺《びんず》れに髪に返さうとすると、呀《や》、する毎《ごと》に、手の撓《しな》ふにさへ、得《え》も言はれない、異《い》な、変な、悪臭《わるぐさ》い、堪《たま》らない、臭気《におい》がしたのであるから。
 城は公園を出る方で、其処《そこ》にも影がないとすると、吹矢《ふきや》の道を上《のぼ》つたに相違ない。で、後《あと》へ続くには堪へられぬ。
 其処《そこ》で滝の道を訊いて――此処《ここ》へ来た。――
 泉殿《せんでん》に擬《なぞら》へた、飛々《とびとび》の亭《ちん》の孰《いず》れかに、邯鄲《かんたん》の石の手水鉢《ちょうずばち》、名品、と教へられたが、水の音より蝉《せみ》の声。で、勝手に通抜《とおりぬ》けの出来る茶屋は、昼寝の半《なか》ばらしい。何《ど》の座敷も寂寞《ひっそり》して人気勢《ひとけはい》もなかつた。
 御歯黒蜻蛉《おはぐろとんぼ》が、鉄漿《かね》つけた女房《にょうぼ》の、微《かすか》な夢の影らしく、ひら/\と一つ、葉ばかりの燕子花《かきつばた》を伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍遙《しょうよう》した昔の幻を、寂《さび》しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。
 すべて旧藩侯《きゅうはんこう》の庭園だ、と言ふにつけても、贈主《おくりぬし》なる貴公子の面影《おもかげ》さへ浮ぶ、伯爵の鸚鵡《おうむ》を何《なん》とせう。
 霊廟《れいびょう》の土の瘧《おこり》を落し、秘符《ひふ》の威徳の鬼を追ふやう、立処《たちどころ》に坊主の虫歯を癒《いや》したは然《さ》ることながら、路々《みちみち》も悪臭《わるぐさ》さの消えないばかりか、口中《こうちゅう》の臭気は、次第に持つ手を伝《つたわ》つて、袖《そで》にも移りさうに思はれる。
 紫玉は、樹の下に涼傘《ひがさ》を畳《たた》んで、滝を斜めに視《み》つゝ、池の縁《へり》に低く居た。
 滝は、旱《ひでり》に爾《しか》く骨なりと雖《いえど》も、巌《いわお》には苔蒸《こけむ》し、壺《つぼ》は森を被《かつ》いで蒼《あお》い。然《しか》も巌《いわ》がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄《すさま》じく響くのは、大樋《おおどい》を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠《うちぼり》に灌《そそ》ぐと聞く、戦国の余残《なごり》ださうである。
 紫玉は釵《かんざし》を洗つた。……艶《えん》なる女優の心を得た池の面《おも》は、萌黄《もえぎ》の薄絹《うすぎぬ》の如く波を伸《の》べつゝ拭《ぬぐ》つて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に挿《さ》さうとすると、些《ちっ》と離したくらゐでは、耳の辺《はた》へも寄せられぬ。鼻を衝《つ》いて、ツンと臭《くさ》い。
「あ、」と声を立てたほどである。
 雫《しずく》を切ると、雫まで芬《ぷん》と臭《にお》ふ。たとへば貴重なる香水の薫《かおり》の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど香《か》が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果《はて》は指環の緑碧紅黄《りょくへきこうこう》の珠玉《しゅぎょく》の数にも、言ひやうのない悪臭《あくしゅう》が蒸《いき》れ掛《かか》るやうに思はれたので。……
「えゝ。」
 紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振《ひとふり》振つた。
「ぬしにお成りよ。」
 白金《プラチナ》の羽《はね》の散る状《さま》に、ちら/\と映ると、釵《かんざし》は滝壺《たきつぼ》に真蒼《まっさお》な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽《せんきん》よ。卿《おんみ》は熱帯の鬱林《うつりん》に放たれずして、山地《さんち》の碧潭《へきたん》に謫《たく》されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の獲《え》ものに競《きそ》ふか、静《しずか》なる池の面《も》に、眠れる魚《うお》の如く縦横《じゅうおう》に横《よこた》はつた、樹の枝々の影は、尾鰭《おひれ》を跳ねて、幾千ともなく、一時《いちどき》に皆|揺動《ゆれうご》いた。
 此に悚然《ぞっ》とした状《さま》に、一度すぼめた袖を、はら/\と翼の如く搏《たた》いたのは、紫玉が、可厭《いとわ》しき移香《うつりが》を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、尚《な》ほ且《か》つ飜々《はらはら》とふるひながら、衝《つ》と飛退《とびの》くやうに、滝の下行く桟道《さんどう》の橋に退《の》いた。
 石の反橋《そりはし》である。巌《いわ》と石の、いづれにも累《かさな》れる牡丹《ぼたん》の花の如きを、左右に築き上げた、銘《めい》を石橋《しゃっきょう》と言ふ、反橋《そりはし》の石の真中に立つて、吻《ほ》と一息《ひといき》した紫玉は、此の時、すらりと、脊《せ》も心も高かつた。

        七

 明眸《めいぼう》の左右に樹立《こだち》が分れて、一条《ひとすじ》の大道《だいどう》、炎天の下《もと》に展《ひら》けつゝ、日盛《ひざかり》の町の大路《おおじ》が望まれて、煉瓦造《れんがづくり》の避雷針、古い白壁《しらかべ》、寺の塔など睫《まつげ》を擽《こそぐ》る中に、行交《ゆきか》ふ人は点々と蝙蝠《こうもり》の如く、電車は光りながら山椒魚《さんしょううお》の這《は》ふのに似て居る。
 忘れもしない、眼界《がんかい》の其の突当《つきあた》りが、昨夜《ゆうべ》まで、我あればこそ、電燭の宛然《さながら》水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
 あゝ、一翳《いちえい》の雲もないのに、緑《みどり》紫《むらさき》紅《くれない》の旗の影が、ぱつと空を蔽《おお》ふまで、花《はな》やかに目に飜《ひるがえ》つた、唯《と》見ると颯《さっ》と近づいて、眉《まゆ》に近い樹々の枝に色鳥《いろどり》の種々《いろいろ》の影に映つた。
 蓋《けだ》し劇場に向つて、高く翳《かざ》した手の指環の、玉の矜《ほこり》の幻影《まぼろし》である。
 紫玉は、瞳《ひとみ》を返して、華奢《きゃしゃ》な指を、俯向《うつむ》いて視《み》つゝ莞爾《にっこり》した。
 そして、すら/\と石橋《しゃっきょう》を前方《むこう》へ渡つた。それから、森を通る、姿は翠《みどり》に青ずむまで、静《しずか》に落着いて見えたけれど、二《ふた》ツ三《み》ツ重《かさな》つた不意の出来事に、心の騒いだのは争《あらそ》はれない。……涼傘《ひがさ》を置忘《おきわす》れたもの。……
 森を高く抜けると、三国《さんごく》見霽《みはら》しの一面の広場に成る。赫《かっ》と射《い》る日に、手廂《てびさし》して恁《こ》う視《なが》むれば、松、桜、梅いろ/\樹の状《さま》、枝の振《ふり》の、各自《おのおの》名ある神仙《しんせん》の形を映すのみ。幸ひに可忌《いまわし》い坊主の影は、公園の一|木《ぼく》一|草《そう》をも妨《さまた》げず。又……人の往来《ゆきか》ふさへ殆《ほとん》どない。
 一処《ひとところ》、大池《おおいけ》があつて、朱塗《しゅぬり》の船の、漣《さざなみ》に、浮いた汀《みぎわ》に、盛装した妙齢《としごろ》の派手《はで》な女が、番《つがい》の鴛鴦《おしどり》の宿るやうに目に留《とま》つた。
 真白な顔が、揃《そろ》つて此方《こっち》を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠《ししょう》さーん。」
 一人が最《も》う、空気草履《くうきぞうり》の、媚《なまめ》かしい褄捌《つまさば》きで駆けて来る、目鼻は玉江《たまえ》。……最《も》う一人は玉野《たまの》であつた。
 紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な処《ところ》で、と言ひたいわね。見《けん》ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を悪戯《いたずら》をして居るの、お前さん
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