吻《くち》を接《つけ》るのは不作法だ、と咎《とが》めたやうに聞えたのである。
劇壇の女王《にょおう》は、気色《けしき》した。
「いやにお茶《ちゃ》がつてるよ、生意気な。」と、軽く其の頭《つむり》を掌《てのひら》で叩《たた》き放《ぱな》しに、衝《つ》と広前《ひろまえ》を切れて、坂に出て、見返りもしないで、扨《さ》てやがて此の茶屋に憩《いこ》つたのであつた。――
今思ふと、手を触れた稚児の頭《つむり》も、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、幾干《いくら》か茫《ぼう》としたものかも知れない。
「娘《ねえ》さん、町から、此の坂を上《のぼ》る処《ところ》に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言ふ、お社《やしろ》です。」
「浦安《うらやす》神社でございますわ。」と、片手を畳《たたみ》に、娘は行儀正しく答へた。
「何神様《なにがみさま》が祭つてあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい傍《そば》に、蓮池《はすいけ》に向いて、(じんべ)と言ふ膝《ひざ》ぎりの帷子《かたびら》で、眼鏡《めがね》の下に内職らしい網《あみ》をすいて居る半白《はんぱく》の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外《はず》して、コツンと水牛《すいぎゅう》の柄《え》を畳《たた》んで、台に乗せて、其から向直《むきなお》つて、丁寧に辞儀をして、
「えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばお司《つかさど》りなされます、竜神《りゅうじん》と申すことでござります。これの、太夫様《たゆうさま》にお茶を替へて上げぬかい。」
紫玉は我知《われし》らず衣紋《えもん》が締《しま》つた。……称《とな》へかたは相応《そぐ》はぬにもせよ、拙《へた》な山水画の裡《なか》の隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。
心着《こころづ》けば、正面|神棚《かみだな》の下には、我が姿、昨夜《ゆうべ》も扮した、劇中|女主人公《ヒロイン》の王妃なる、玉の鳳凰《ほうおう》の如きが掲げてあつた。
「そして、……」
声も朗《ほがら》かに、且《か》つ慎《つつ》ましく、
「竜神だと、女神《おんながみ》ですか、男神《おとこがみ》ですか。」
「さ、さ。」と老人は膝《ひざ》を刻んで、恰《あたか》も此の問を待構《まちかま》へたやうに、
「其の儀は、とかくに申しまするが、如何《いかが》か、孰《いず》れとも相分《あいわか》りませぬ。此の公園のづツと奥に、真暗《まっくら》な巌窟《いわや》の中に、一ヶ処|清水《しみず》の湧《わ》く井戸がござります。古色《こしょく》の夥《おびただ》しい青銅の竜が蟠《わだかま》つて、井桁《いげた》に蓋《ふた》をして居《お》りまして、金網《かなあみ》を張り、みだりに近づいては成りませぬが、霊沢金水《れいたくこんすい》と申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、貴方様《あなたさま》が御意《ぎょい》の浦安神社は、其の前殿《まえどの》と申す事でござります。御参詣《おまいり》を遊ばしましたか。」
「あ、否《いいえ》。」と言つたが、すぐ又|稚児《ちご》の事が胸に浮んだ。それなり一時《いちじ》言葉が途絶《とだ》える。
森々《しんしん》たる日中《ひなか》の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳《そび》ゆる。茶店《ちゃみせ》の横にも、見上《みあげ》るばかりの槐《えんじゅ》榎《えのき》の暗い影が樅《もみ》楓《かえで》を薄く交《まじ》へて、藍緑《らんりょく》の流《ながれ》に群青《ぐんじょう》の瀬のある如き、たら/\上《あが》りの径《こみち》がある。滝かと思ふ蝉時雨《せみしぐれ》。光る雨、輝く木《こ》の葉《は》、此の炎天の下蔭《したかげ》は、恰《あたか》も稲妻《いなずま》に籠《こも》る穴に似て、もの凄《すご》いまで寂寞《ひっそり》した。
木下闇《こしたやみ》、其の横径《よこみち》の中途《なかほど》に、空屋《あきや》かと思ふ、廂《ひさし》の朽《く》ちた、誰《たれ》も居ない店がある……
四
鎖《とざ》してはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出て些《ち》とは客が寄らうも知れぬ。店|一杯《いっぱい》に雛壇《ひなだん》のやうな台を置いて、最《いと》ど薄暗いのに、三方《さんぽう》を黒布《くろぬの》で張廻《はりまわ》した、壇の附元《つけもと》に、流星《ながれぼし》の髑髏《しゃれこうべ》、乾《ひから》びた蛾《ひとりむし》に似たものを、点々並べたのは的《まと》である。地方の盛場《さかりば》には時々|見掛《みか》ける、吹矢《ふきや》の機関《からくり》とは一目《ひとめ》視《み》て紫玉にも分つた。
実《まこと》は――吹矢《ふきや》も、化《ばけ》ものと名のついたので、幽霊の廂合《ひあわい》の幕から倒《さかさま》にぶら下り、見越入道《みこしにゅうどう》は誂《あつら》へた穴からヌツと出る。雪女は拵《こしら》への黒塀《くろべい》に薄《うっす》り立ち、産女鳥《うぶめどり》は石地蔵《いしじぞう》と並んで悄乎《しょんぼり》彳《たたず》む。一《ひと》ツ目《め》小僧《こぞう》の豆腐買《とうふかい》は、流灌頂《ながれかんちょう》の野川《のがわ》の縁《へり》を、大笠《おおがさ》を俯向《うつむ》けて、跣足《はだし》でちよこ/\と巧みに歩行《ある》くなど、仕掛《しかけ》ものに成つて居る。……如何《いかが》はしいが、生霊《いきりょう》と札《ふだ》の立つた就中《なかんずく》小さな的《まと》に吹当《ふきあ》てると、床板《ゆかいた》がぐわらりと転覆《ひっくりかえ》つて、大松蕈《おおまつたけ》を抱いた緋の褌《ふんどし》のおかめが、とんぼ返りをして莞爾《にこり》と飛出《とびだ》す、途端に、四方へ引張つた綱《つな》が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉《いちどき》にぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其で市《いち》が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ歩行《ある》く波張《なみばり》が切々《きれぎれ》に、藪畳《やぶだたみ》は打倒《ぶったお》れ、飾《かざり》の石地蔵は仰向《あおむ》けに反《そ》つて、視た処《ところ》、ものあはれなまで寂《さび》れて居た。
――其の軒《のき》の土間《どま》に、背後《うしろ》むきに蹲《しゃが》んだ僧形《そうぎょう》のものがある。坊主《ぼうず》であらう。墨染《すみぞめ》の麻《あさ》の法衣《ころも》の破《や》れ/\な形《なり》で、鬱金《うこん》も最《も》う鼠《ねずみ》に汚《よご》れた布に――すぐ、分つたが、――三味線《しゃみせん》を一|挺《ちょう》、盲目《めくら》の琵琶背負《びわじょい》に背負《しょ》つて居る、漂泊《さすら》ふ門附《かどづけ》の類《たぐい》であらう。
何をか働く。人目を避けて、蹲《うずくま》つて、虱《しらみ》を捻《ひね》るか、瘡《かさ》を掻《か》くか、弁当を使ふとも、掃溜《はきだめ》を探した干魚《ほしうお》の骨を舐《しゃぶ》るに過ぎまい。乞食《こじき》のやうに薄汚《うすぎたな》い。
紫玉は敗竄《はいざん》した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息《ためいき》を漏《も》らした。且《か》つあはれみ、且つ可忌《いまわ》しがつたのである。
灰吹《はいふき》に薄い唾《つば》した。
此の世盛《よざか》りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑|蝉《せみ》の声も滴《したた》るが如き影に、框《かまち》も自然《おのず》から浮いて高い処《ところ》に、色も濡々《ぬれぬれ》と水際立《みずぎわだ》つ、紫陽花《あじさい》の花の姿を撓《たわ》わに置きつゝ、翡翠《ひすい》、紅玉《ルビイ》、真珠など、指環を三《み》つ四《よ》つ嵌《は》めた白い指をツト挙げて、鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻いた次手《ついで》に、白金《プラチナ》の高彫《たかぼり》の、翼に金剛石《ダイヤ》を鏤《ちりば》め、目には血膸玉《スルウドストン》、嘴《くちばし》と爪に緑宝玉《エメラルド》の象嵌《ぞうがん》した、白く輝く鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》――何某《なにがし》の伯爵が心を籠《こ》めた贈《おくり》ものとて、人は知つて、(伯爵)と称《とな》ふる其の釵を抜いて、脚《あし》を返して、喫掛《のみか》けた火皿《ひざら》の脂《やに》を浚《さら》つた。……伊達《だて》の煙管《きせる》は、煙を吸ふより、手すさみの科《しぐさ》が多い慣習《ならい》である。
三味線|背負《しょ》つた乞食坊主が、引掻《ひっか》くやうにもぞ/\と肩を揺《ゆす》ると、一眼《いちがん》ひたと盲《し》ひた、眇《めっかち》の青ぶくれの面《かお》を向けて、恁《こ》う、引傾《ひっかたが》つて、熟《じっ》と紫玉の其の状《さま》を視《み》ると、肩を抽《ぬ》いた杖《つえ》の尖《さき》が、一度胸へ引込《ひっこ》んで、前屈《まえかが》みに、よたりと立つた。
杖を径《こみち》に突立《つきた》て/\、辿々《たどたど》しく下闇《したやみ》を蠢《うごめ》いて下《お》りて、城の方《かた》へ去るかと思へば、のろく後退《あとじさり》をしながら、茶店《ちゃみせ》に向つて、吻《ほっ》と、立直《たちなお》つて一息《ひといき》吐《つ》く。
紫玉の眉《まゆ》の顰《ひそ》む時、五|間《けん》ばかり軒《のき》を離れた、其処《そこ》で早《は》や、此方《こなた》へぐつたりと叩頭《おじぎ》をする。
知らない振《ふり》して、目をそらして、紫玉が釵《かんざし》に俯向《うつむ》いた。が、濃い睫毛《まつげ》の重く成るまで、坊主の影は近《ちかづ》いたのである。
「太夫様《たゆうさま》。」
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前《めさき》の土間《どま》に、両膝《りょうひざ》を折つて居た。
「…………」
「お願《ねがい》でござります。……お慈悲《じひ》ぢや、お慈悲、お慈悲。」
仮初《かりそめ》に置いた涼傘《ひがさ》が、襤褸法衣《ぼろごろも》の袖《そで》に触れさうなので、密《そっ》と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘《おやこ》に目を遣《や》つた。
立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘も静《しずか》に視て居る。
五
少時《しばらく》すると、此の旱《ひでり》に水は涸《か》れたが、碧緑《へきりょく》の葉の深く繁れる中なる、緋葉《もみじ》の滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池《はすいけ》の汀《みぎわ》を歩行《ある》いて居た。こゝに別に滝の四阿《あずまや》と称《とな》ふるのがあつて、八《や》ツ橋《はし》を掛け、飛石《とびいし》を置いて、枝折戸《しおりど》を鎖《とざ》さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻《こもど》りする事に成る。紫玉はあの、吹矢《ふきや》の径《みち》から公園へ入らないで、引返《ひきかえ》したので、……涼傘《ひがさ》を投遣《なげや》りに翳《かざ》しながら、袖《そで》を柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処《あすこ》で抜いた白金《プラチナ》の鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》、其の翼を一寸《ちょっと》抓《つま》んで、晃乎《きらり》とぶら下げて居るのであるが。
仔細は希有《けう》な、……
坊主が土下座《どげざ》して「お慈悲、お慈悲。」で、お願《ねがい》と言ふのが金《かね》でも米でもない。施与《ほどこし》には違ひなけれど、変な事には「お禁厭《まじない》をして遣《つか》はされい。虫歯が疚《うず》いて堪へ難《がた》いでな。」と、成程《なるほど》左の頬《ほお》がぷくりとうだばれたのを、堪難《たえがた》い状《さま》に掌《てのひら》で抱《かか》へて、首を引傾《ひっかたむ》けた同じ方の一眼《いちがん》が白くどろんとして潰《つぶ》れて居る。其の目からも、ぶよ/\とした唇からも、汚《きたな》い液《しる》が垂れさうな塩梅《あんばい》。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五|寸《すん》釘を打たれうとても、恁《かく》までの苦悩《くるしみ》はございますまいぞ、お情《なさけ》ぢや、禁厭《まじの》うて遣《つか》はされ。」で、禁厭《まじない》とは別儀《べつぎ》でな
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング