官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。
 あの、底知れずの水に浮いた御幣《ごへい》は、やがて壇に登るべき立女形《たておやま》に対して目触《めざわ》りだ、と逸早《いちはや》く取退《とりの》けさせ、樹立《こだち》さしいでて蔭《かげ》ある水に、例の鷁首《げきしゅ》の船を泛《うか》べて、半《なか》ば紫《むらさき》の幕を絞つた裡《うち》には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位《くんい》の人々が、杯《さかずき》を置いて籠《こも》つた。――雨乞《あまごい》に参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。
 伶人《れいじん》の奏楽一順して、ヒユウと簫《しょう》の音《ね》の虚空《こくう》に響く時、柳の葉にちら/\と緋の袴《はかま》がかゝつた。
 群集は波を揉《も》んで動揺《なだれ》を打つた。
 あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、階《きざはし》に劃《しき》られて、二条《ふたすじ》の紅《べに》の霞《かすみ》を曳《ひ》きつゝ、上《うえ》紫《むらさき》に下《した》萌黄《もえぎ》なる、蝶《ちょう》鳥《とり》の刺繍《ぬい》の狩衣《かりぎぬ》は、緑に透き、葉に靡《なび》いて、柳の中を、する/\と、容顔美麗なる白拍子《しらびょうし》。紫玉は、色ある月の風情《ふぜい》して、一千の花の燈《ともし》の影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
 花火の中から、天女《てんにょ》が斜《ななめ》に流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
 烏帽子《えぼし》もともに此の装束《しょうぞく》は、織《おり》ものの模範、美術の表品《ひょうほん》、源平時代の参考として、嘗《かつ》て博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什物《じゅうもつ》であつた。
 扨《さ》て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために記《しる》すべき振事《ふりごと》は更にない。渠《かれ》は学校出の女優である。
 が、姿は天より天降《あまくだ》つた妙《たえ》に艶《えん》なる乙女《おとめ》の如く、国を囲める、其の赤く黄に爛《ただ》れたる峰《みね》嶽《たけ》を貫《つらぬ》いて、高く柳の間《あいだ》に懸《かか》つた。
 紫玉は恭《うやうや》しく三《み》たび虚空《なかぞら》を拝した。
 時に、宮奴《みやつこ》の装《よそおい》した白丁《はくちょう》の下男が一人、露店の飴屋《あめや》が張り
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