さうな、渋《しぶ》の大傘《おおからかさ》を畳《たた》んで肩にかついだのが、法壇の根に顕《あらわ》れた。――此は怪《け》しからず、天津乙女《あまつおとめ》の威厳と、場面の神聖を害《そこな》つて、何《ど》うやら華魁《おいらん》の道中じみたし、雨乞《あまごい》には些《ち》と行過《ゆきす》ぎたもののやうだつた。が、何、降るものと極《きま》れば、雨具《あまぐ》の用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が被《かつ》いだ装束は、貴重なる宝物《ほうもつ》であるから、驚破《すわ》と言はばさし掛けて濡《ぬ》らすまいための、鎌倉殿の内意《ないい》であつた。
――然《さ》ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。――
あはれ、身のおき処《どころ》がなく成つて、紫玉の裾《すそ》が法壇に崩れた時、「状《ざま》を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込《とびこ》め。」――わツと群集の騒いだ時、……堪《たま》らぬ、と飛上《とびあが》つて、紫玉を圧《おさ》へて、生命《いのち》を取留《とりと》めたのも此の下男で、同時に狩衣《かりぎぬ》を剥《は》ぎ、緋の袴《はかま》の紐《ひも》を引解《ひきほど》いたのも――鎌倉殿のためには敏捷《びんしょう》な、忠義な奴で――此の下男である。
雨はもとより、風どころか、余《あまり》の人出に、大池《おおいけ》には蜻蛉《とんぼ》も飛ばなかつた。
十二
時を見、程《ほど》を計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足許《あしもと》に低き波の如く見下《みおろ》しつゝ、昨日《きのう》通つた坂にさへ蟻《あり》の伝ふに似て押覆《おしかえ》す人数《にんず》を望みつゝ、徐《おもむろ》に雪の頤《あぎと》に結んだ紫《むらさき》の纓《ひも》を解《と》いて、結目《むすびめ》を胸に、烏帽子《えぼし》を背に掛けた。
其から伯爵の釵《かんざし》を抜いて、意気込んで一振《ひとふ》り振ると、……黒髪の颯《さっ》と捌《さば》けたのが烏帽子の金《きん》に裏透《うらす》いて、宛然《さながら》金屏風《きんびょうぶ》に名誉の絵師の、松風を墨《すみ》で流したやうで、雲も竜も其処《そこ》から湧《わ》くか、と視《なが》められた。――此だけは工夫した女優の所作《しょさ》で、手には白金《プラチナ》が匕首《あいくち》の如く輝いて、凄艶《せいえん》比類なき風情《ふぜい》であつた。
さて其の
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