芬《ぷん》と臭《にお》ふ。たとへば貴重なる香水の薫《かおり》の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど香《か》が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果《はて》は指環の緑碧紅黄《りょくへきこうこう》の珠玉《しゅぎょく》の数にも、言ひやうのない悪臭《あくしゅう》が蒸《いき》れ掛《かか》るやうに思はれたので。……
「えゝ。」
 紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振《ひとふり》振つた。
「ぬしにお成りよ。」
 白金《プラチナ》の羽《はね》の散る状《さま》に、ちら/\と映ると、釵《かんざし》は滝壺《たきつぼ》に真蒼《まっさお》な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽《せんきん》よ。卿《おんみ》は熱帯の鬱林《うつりん》に放たれずして、山地《さんち》の碧潭《へきたん》に謫《たく》されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の獲《え》ものに競《きそ》ふか、静《しずか》なる池の面《も》に、眠れる魚《うお》の如く縦横《じゅうおう》に横《よこた》はつた、樹の枝々の影は、尾鰭《おひれ》を跳ねて、幾千ともなく、一時《いちどき》に皆|揺動《ゆれうご》いた。
 此に悚然《ぞっ》とした状《さま》に、一度すぼめた袖を、はら/\と翼の如く搏《たた》いたのは、紫玉が、可厭《いとわ》しき移香《うつりが》を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、尚《な》ほ且《か》つ飜々《はらはら》とふるひながら、衝《つ》と飛退《とびの》くやうに、滝の下行く桟道《さんどう》の橋に退《の》いた。
 石の反橋《そりはし》である。巌《いわ》と石の、いづれにも累《かさな》れる牡丹《ぼたん》の花の如きを、左右に築き上げた、銘《めい》を石橋《しゃっきょう》と言ふ、反橋《そりはし》の石の真中に立つて、吻《ほ》と一息《ひといき》した紫玉は、此の時、すらりと、脊《せ》も心も高かつた。

        七

 明眸《めいぼう》の左右に樹立《こだち》が分れて、一条《ひとすじ》の大道《だいどう》、炎天の下《もと》に展《ひら》けつゝ、日盛《ひざかり》の町の大路《おおじ》が望まれて、煉瓦造《れんがづくり》の避雷針、古い白壁《しらかべ》、寺の塔など睫《まつげ》を擽《こそぐ》る中に、行交《ゆきか》ふ人は点々と蝙蝠《こうもり》の如く、電車は光りながら山椒魚《さんしょううお》の這《は》ふのに似
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