て居る。
 忘れもしない、眼界《がんかい》の其の突当《つきあた》りが、昨夜《ゆうべ》まで、我あればこそ、電燭の宛然《さながら》水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
 あゝ、一翳《いちえい》の雲もないのに、緑《みどり》紫《むらさき》紅《くれない》の旗の影が、ぱつと空を蔽《おお》ふまで、花《はな》やかに目に飜《ひるがえ》つた、唯《と》見ると颯《さっ》と近づいて、眉《まゆ》に近い樹々の枝に色鳥《いろどり》の種々《いろいろ》の影に映つた。
 蓋《けだ》し劇場に向つて、高く翳《かざ》した手の指環の、玉の矜《ほこり》の幻影《まぼろし》である。
 紫玉は、瞳《ひとみ》を返して、華奢《きゃしゃ》な指を、俯向《うつむ》いて視《み》つゝ莞爾《にっこり》した。
 そして、すら/\と石橋《しゃっきょう》を前方《むこう》へ渡つた。それから、森を通る、姿は翠《みどり》に青ずむまで、静《しずか》に落着いて見えたけれど、二《ふた》ツ三《み》ツ重《かさな》つた不意の出来事に、心の騒いだのは争《あらそ》はれない。……涼傘《ひがさ》を置忘《おきわす》れたもの。……
 森を高く抜けると、三国《さんごく》見霽《みはら》しの一面の広場に成る。赫《かっ》と射《い》る日に、手廂《てびさし》して恁《こ》う視《なが》むれば、松、桜、梅いろ/\樹の状《さま》、枝の振《ふり》の、各自《おのおの》名ある神仙《しんせん》の形を映すのみ。幸ひに可忌《いまわし》い坊主の影は、公園の一|木《ぼく》一|草《そう》をも妨《さまた》げず。又……人の往来《ゆきか》ふさへ殆《ほとん》どない。
 一処《ひとところ》、大池《おおいけ》があつて、朱塗《しゅぬり》の船の、漣《さざなみ》に、浮いた汀《みぎわ》に、盛装した妙齢《としごろ》の派手《はで》な女が、番《つがい》の鴛鴦《おしどり》の宿るやうに目に留《とま》つた。
 真白な顔が、揃《そろ》つて此方《こっち》を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠《ししょう》さーん。」
 一人が最《も》う、空気草履《くうきぞうり》の、媚《なまめ》かしい褄捌《つまさば》きで駆けて来る、目鼻は玉江《たまえ》。……最《も》う一人は玉野《たまの》であつた。
 紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な処《ところ》で、と言ひたいわね。見《けん》ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を悪戯《いたずら》をして居るの、お前さん
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