ゃみせ》の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸《いき》を殺して固唾《かたず》を飲んだ。
 ……「あゝ、お有難《ありがた》や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包《しゃみせんづつみ》、がつくりと抜衣紋《ぬきえもん》。で、両掌《りょうて》を仰向《あおむ》け、低く紫玉の雪の爪尖《つまさき》を頂く真似して、「恁《か》やうに穢《むさ》いものなれば、くど/\お礼など申して、お身近《みぢか》は却《かえ》つてお目触《めざわ》り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻《ね》ぢるやうに杖《つえ》で立つて、
「お有難や、お有難や。あゝ、苦《く》を忘れて腑《ふ》が抜けた。もし、太夫様《たゆうさま》。」と敷居を跨《また》いで、蹌踉状《よろけざま》に振向《ふりむ》いて、「あの、其のお釵《かんざし》に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡《おうむ》を視《み》る時、「歯くさが着いては居《お》りませぬか。恐縮《おそれ》や。……えひゝ。」とニヤリとして、
「ちやつとお拭《ふ》きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙《ふところがみ》を、余儀《よぎ》なく一寸《ちょっと》逡巡《ためら》つた。
 同時に、あらぬ方《かた》に蒼《つ》と面《おもて》を背《そむ》けた。

        六

 紫玉は待兼《まちか》ねたやうに懐紙《かいし》を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径《こみち》へ行《ゆ》きましたか、坊主は、と訊《き》いた。父も娘も、へい、と言つて、大方|然《そ》うだらうと言ふ。――最《も》う影もなかつたのである。父娘《おやこ》は唯《ただ》、紫玉の挙動《ふるまい》にのみ気を奪《と》られて居たらう。……此の辺を歩行《ある》く門附《かどづけ》見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足《はだし》で居ました、と言つたので、旅から紛込《まぎれこ》んだものか、其も分らぬ。
 と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々《ちょいちょい》眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。抜いて持つた釵《かんざし》、鬢摺《びんず》れに髪に返さうとすると、呀《や》、する毎《ごと》に、手の撓《しな》ふにさへ、得《え》も言はれない、異《い》な、変な、悪臭《わるぐさ》い、堪《たま》らない、臭気《におい》がしたのであるから。
 城は公園を出る方で、其処《そこ》にも影がないとすると、吹矢《ふきや》の道を上《のぼ》つたに相違ない。で、後《
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