は賢い。……加うるに、紫玉が被《かつ》いだ装束は、貴重なる宝物《ほうもつ》であるから、驚破《すわ》と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
 ――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。――
 あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の裾《すそ》が法壇に崩れた時、「状《ざま》を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わッと群集の騒いだ時、……堪《たま》らぬ、と飛上って、紫玉を圧《おさ》えて、生命《いのち》を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を剥《は》ぎ、緋の袴の紐を引解《ひきほど》いたのも――鎌倉殿のためには敏捷《びんしょう》な、忠義な奴《やつ》で――この下男である。
 雨はもとより、風どころか、余《あまり》の人出に、大池には蜻蛉《とんぼ》も飛ばなかった。

       十二

 時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許《あしもと》に低き波のごとく見下《みおろ》しつつ、昨日《きのう》通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆《おしかえ》す人数《にんず》を望みつつ、徐《おもむろ》に雪の頤《あぎと》に結んだ紫の纓《ひも》を解いて、結目《むす
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