有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋《ぬきえもん》。で、両掌《りょうて》を仰向け、低く紫玉の雪の爪先《つまさき》を頂く真似して、「かように穢《むさ》いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触《めざわ》り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻《ね》じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて腑《ふ》が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨《また》いで、蹌踉《よろけ》状《ざま》に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を視《み》る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。恐縮《おそれ》や。……えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお拭《ふ》きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた懐紙《ふところがみ》を、余儀なくちょっと逡巡《ためら》った。
 同時に、あらぬ方《かた》に蒼《つ》と面《おもて》を背けた。

       六

 紫玉は待兼ねたように懐紙《かいし》を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径《こみち》へ行《ゆ》きましたか、坊主は、と訊《き》いた。父も娘も、へい、と言って、大方そうだろうと言う。――もう影もなかっ
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