し》いもので、起居《たちい》にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の夜《よ》の戸鎖《とざし》浅ければ、伊達巻《だてまき》の跣足《はだし》で忍んで出る隙《すき》は多かった。
 生命《いのち》の惜《おし》からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船《かよいぶね》は、胸の悩みに、身もだえするままに揺動《ゆりうご》いて、萎《しお》れつつ、乱れつつ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかえて、皓々《こうこう》として雫《しずく》する月の露吸う力もない。
「ええ、口惜しい。」
 乱れがみを※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間《ま》に痩《や》せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に擬《なぞら》えた金剛石《ダイヤモンド》のをはじめ、紅玉《ルビイ》も、緑宝玉《エメラルド》も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅《うすくれない》に、浅緑に皆水に落ちた。
 どうでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜《たつ》の口は、水の輪に舞う処である。
 ここに残るは、名なればそれを誇《ほこり》として、指にも髪にも飾らなかった、紫の玉ただ一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗《さしのぞ》いて、千尋《ちひろ》の淵《ふち》の水底《みなそこ》に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢《こずえ》の白鷺《しらさぎ》の影さえ宿る、櫓《やぐら》と、窓と、楼《たかどの》と、美しい住家《すみか》を視《み》た。
「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」
 縋る波に力あり、しかと引いて水を掴《つか》んで、池に倒《さかさま》に身を投じた。爪尖《つまさき》の沈むのが、釵の鸚鵡《おうむ》の白く羽うつがごとく、月光に微《かすか》に光った。

「御坊様、貴方は?」
「ああ、山国の門附《かどづけ》芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日《きのう》から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」
 坊主は、欄干に擬《まが》う苔蒸《こけむ》した井桁《いげた》に、破法衣《やれごろも》の腰を掛けて、活《い》けるがごとく爛々として眼《まなこ》の輝く青銅の竜の蟠《わだかま》れる、角《つの》の枝に、肱《ひじ》を安らかに笑みつつ言った。
「私に、何のお怨《うら》みで?……」
 と息せくと、眇《めっかち》の、ふやけた目珠《めだま》ぐるみ、片頬を掌《たなそこ》でさし蔽《おお》うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの嫉《ねた》みをして、前芸をちょっと遣《や》った。……さて時に承わるが太夫、貴女《あなた》はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに優伎《わざおぎ》の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
 紫玉は巌《いわや》に俯向《うつむ》いた。
「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどうじゃろう。」
「ええ、」
 と仰いで顔を視《み》た時、紫玉はゾッと身に沁《し》みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。
「貴方なら、貴方なら――なぜ、さすろうておいで遊ばす。」
 坊主は両手で顔を圧《おさ》えた。
「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その御足許《おあしもと》は動かれぬ。や!」
 と、慌《あわただ》しく身を退《しさ》ると、呆《あき》れ顔してハッと手を拡げて立った。
 髪黒く、色雪のごとく、厳《いつく》しく正しく艶《えん》に気高き貴女《きじょ》の、繕わぬ姿したのが、すらりと入った。月を頸《うなじ》に掛けつと見えたは、真白《まっしろ》な涼傘《ひがさ》であった。
 膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖《てさき》を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打《ぶ》ったね。――雨と水の世話をしに出ていた時、……」
 装《よそおい》は違った、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢《ちょうずばち》の稚児に、寸分のかわりはない。
「姫様、貴女《あなた》は。」
 と坊主が言った。
「白山へ帰る。」

 ああ、その剣ケ峰の雪の池には、竜女の姫神おわします。
「お馬。」
 と坊主が呼ぶと、スッと畳んで、貴女《きじょ》が地に落した涼傘は、身震《みぶるい》をしてむくと起きた。手まさぐりたまえる緋の総《ふさ》は、たちまち紅《くれない》の手綱に捌《さば》けて、朱の鞍《くら》置いた白の神馬《しんめ》。
 ずっと騎《め》すのを、轡頭《くつわづな》を曳《ひ》いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭《しゅうぎ》をするぞ。それ、錦《にしき》を着て行《ゆ》け。」
 かなぐり脱いだ法衣《ころも》を投げると、素裸
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