たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、適格《しっくり》したものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。
 よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。
 ――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀《とし》の生命《いのち》の親である。――
 しかも場所は、面前《まのあたり》彼処《かしこ》に望む、神田明神の春の夜《よ》の境内であった。
「ああ……もう一呼吸《ひといき》で、剃刀《かみそり》で、……」
 と、今|視《なが》めても身の毛が悚立《よだ》つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈《くま》を取った可恐《おそろし》い面のようで、家々の棟は、瓦の牙《きば》を噛み、歯を重ねた、その上に二処《ふたところ》、三処《みところ》、赤煉瓦《あかれんが》の軒と、亜鉛《トタン》屋根の引剥《ひっぺがし》が、高い空に、赫《かっ》と赤い歯茎を剥《む》いた、人を啖《く》う鬼の口に髣髴《ほうふつ》する。……その森、その樹立《こだち》は、……春雨の煙《けぶ》ると
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