たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、適格《しっくり》したものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。
よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。
――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀《とし》の生命《いのち》の親である。――
しかも場所は、面前《まのあたり》彼処《かしこ》に望む、神田明神の春の夜《よ》の境内であった。
「ああ……もう一呼吸《ひといき》で、剃刀《かみそり》で、……」
と、今|視《なが》めても身の毛が悚立《よだ》つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈《くま》を取った可恐《おそろし》い面のようで、家々の棟は、瓦の牙《きば》を噛み、歯を重ねた、その上に二処《ふたところ》、三処《みところ》、赤煉瓦《あかれんが》の軒と、亜鉛《トタン》屋根の引剥《ひっぺがし》が、高い空に、赫《かっ》と赤い歯茎を剥《む》いた、人を啖《く》う鬼の口に髣髴《ほうふつ》する。……その森、その樹立《こだち》は、……春雨の煙《けぶ》るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛《まゆばけ》であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆《さかしま》に生えた蓬々《おどろおどろ》の髯《ひげ》である。
その空へ、すらすらと雁《かりがね》のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据《すわ》って、瞬《まばた》きもしないで、恍惚《うっとり》と同じ処を凝視《みつ》めているのを、宗吉はまたちらりと見た。
ああその女?
と波を打って轟《とどろ》く胸に、この停車場は、大《おおい》なる船の甲板の廻るように、舳《みよし》を明神の森に向けた。
手に取るばかりなお近い。
「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」
その右側の露路の突当りの家で。……
――死のうとした日の朝――宗吉は、年紀上《としうえ》の渠《かれ》の友達に、顔を剃《あた》ってもらった。……その夜《よ》、明神の境内で、アワヤ咽喉《のんど》に擬したのはその剃刀であるが。
(ちょっと順序を附《つけ》よう。)
宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処《ゆきどころ》のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露《うろ》を凌《しの》いでいた。
その人たちというのは、主に懶惰《らんだ》、放蕩《ほうとう》のため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、女房持《にょうぼうもち》なども交《まじ》った。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、真面目《まじめ》に巡査になろうかというのもあった。
そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。
その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴《みはらし》のいい誰かの妾宅《しょうたく》の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。
四
お千は、世を忍び、人目を憚《はばか》る女であった。宗吉が世話になる、渠等《かれら》なかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、追《おっ》て大実業家となると聞いた、絵に描いた化地蔵《ばけじぞう》のような大漢《おおおとこ》が、そんじょその辺のを落籍《ひか》したとは表向《おもてむき》、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。
言うまでもなく商売人《くろうと》だけれど、芸妓《げいしゃ》だか、遊女《おいらん》だか――それは今において分らない――何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、婀娜《あだ》なお千さんだったのである。
前夜まで――唯今《ただいま》のような、じとじと降《ぶり》の雨だったのが、花の開くように霽《あが》った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前《あさはんまえ》……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。
妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお誂《あつら》え、夜中一時頃に蕎麦《そば》の出前が、芬《ぷん》と枕頭《まくらもと》を匂って露路を入ったことを知っているので、行《ゆ》けば何かあるだろう……天気が可《い》いとなお食べたい。空腹《すきばら》を抱いて、げっそりと落込むように、溝《みぞ》の減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑《のどか》そうに三人出た。
肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人《あるじ》で。一度戸口へ引込《ひっこ》んだ宗吉を横目で
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