見ると、小指を出して、
「どうした。」
 と小声で言った。
「まだ、お寝《よ》ってです。」
 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体《はだか》で柏餅《かしわもち》に包《くる》まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って行《ゆ》く。
 次のは、剃《そ》りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面《ほそおもて》の色の白いのが、鼠の法衣下《ころもした》の上へ、黒縮緬の五紋《いつつもん》、――お千さんのだ、振《ふり》の紅《あか》い――羽織を着ていた。昨夜《ゆうべ》、この露路に入った時は、紫の輪袈裟《わげさ》を雲のごとく尊く絡《まと》って、水晶の数珠《じゅず》を提げたのに。――
 と、うしろから、拳固《げんこ》で、前の円い頭をコツンと敲《たた》く真似して、宗吉を流眄《ながしめ》で、ニヤリとして続いたのは、頭毛《かみのけ》の真中《まんなか》に皿に似た禿《はげ》のある、色の黒い、目の窪《くぼ》んだ、口の大《おおき》な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着《もんつき》を脱いで、綿銘仙の羽織を裄短《ゆきみじか》に、めりやすの股引《ももひき》を痩脚《やせずね》に穿《は》いている。……小皿の平四郎。
 いずれも、花骨牌《はちはち》で徹夜の今、明神坂の常盤湯《ときわゆ》へ行ったのである。
 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。
「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」
 とお千さんは、伊達巻一つの艶《えん》な蹴出《けだ》しで、お召の重衣《かさね》の裙《すそ》をぞろりと引いて、黒天鵝絨《くろびろうど》の座蒲団《ざぶとん》を持って、火鉢の前を遁《に》げながらそう言った。
「何、目下は私《あっし》たちの小僧です。」
 と、甘谷《あまや》という横肥《よこぶと》り、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛《まえかけ》の真田《さなだ》をちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。
 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾《めかけ》――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室《ま》へ立った間《ま》に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、
「御苦労々々。」
 と、調子づいて、
「さあ、貴女《あなた》。」
 と、甘谷が座蒲団を引攫《ひっさら》って、もとの処へ。……身体《からだ》に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着《よぎ》で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出《そとで》がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。
 対《つい》の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、
「さ、さ、貴女。」
 と自分は退《の》いて、
「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居《たちい》が石臼《いしうす》を引摺《ひきず》るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気《かっけ》がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。
「可厭《いや》ですことねえ。」
 と、婀娜な目で、襖際《ふすまぎわ》から覗《のぞ》くように、友染の裾《すそ》を曳《ひ》いた櫛巻の立姿。

       五

 桜にはちと早い、木瓜《ぼけ》か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南《ひなた》の薫《かおり》が添って、お千がもとの座に着いた。
 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐《あぐら》を組むのであろう。
「お留守ですか。」
 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を訊《き》いたのである。
 縁側の片隅で、
「えへん!」と屋鳴りのするような咳払《せきばらい》を響かせた、便所の裡《なか》で。
「熊沢はここに居《お》るぞう。」
「まあ。」
「随分ですこと、ほほほ。」
 と家主《いえぬし》のお妾が、次の室《ま》を台所へ通《とおり》がかりに笑って行《ゆ》くと、お千さんが俯向《うつむ》いて、莞爾《にっこり》して、
「余《あんま》り色気がなさ過ぎるわ。」
「そこが御婦人の毒でげす。」
 と甘谷は前掛をポンポンと敲《たた》いて、
「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」
「あら、随分……酷《ひど》いじゃありませんか、甘谷さん、余《あんま》りだよ。」
 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。
「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」
 甘谷は立続けに叩頭《おじぎ》をして、
「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を剃《あ
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