売色鴨南蛮
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緋縮緬《ひぢりめん》であった
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)停車|場《じょう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った顔は
−−
一
はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、緋縮緬《ひぢりめん》であった。その燃立つようなのに、朱で処々《ところどころ》ぼかしの入った長襦袢《ながじゅばん》で。女は裙《すそ》を端折《はしょ》っていたのではない。褄《つま》を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、紅《くれない》がしっとり垂れて、白い足くびを絡《まと》ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、その紅《あか》いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄《こまげた》、泥まみれなのを、弱々と内輪に揃えて、股《また》を一つ捩《よじ》った姿で、降《ふり》しきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。
日永《ひなが》の頃ゆえ、まだ暮《くれ》かかるまでもないが、やがて五時も過ぎた。場所は院線電車の万世橋《まんせいばし》の停車|場《じょう》の、あの高い待合所であった。
柳はほんのりと萌《も》え、花はふっくりと莟《つぼ》んだ、昨日今日、緑、紅《くれない》、霞の紫、春のまさに闌《たけなわ》ならんとする気を籠《こ》めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨《さみだれ》か何ぞのような雨の灰汁《あく》に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき紅木瓜《べにぼけ》の、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向うものの、面《おもて》のほてるばかり目覚しい。……
この目覚しいのを見て、話の主人公となったのは、大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるる、最近留学して帰朝した秦宗吉《はたそうきち》氏である。
辺幅《へんぷく》を修めない、質素な人の、住居《すまい》が芝の高輪《たかなわ》にあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのが習《ならい》であったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人《つとめにん》が大路の往還《ゆきき》の、茶なり黒なり背広で靴は、まったく大袈裟《おおげさ》だけれど、狸が土舟という体《てい》がある。
秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが――歩行《あるき》悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、大《おおき》な煉瓦《れんが》を潜《くぐ》って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行《ある》いただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……
が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも出入《ではいり》がさぞ籠むだろう、と思ったより夥《おびただ》しい混雑で、ただ停車場などと、宿場がって済《すま》してはおられぬ。川留《かわどめ》か、火事のように湧立《わきた》ち揉合《もみあ》う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆《おっかぶ》さる。
すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。
宗吉はそう断念《あきら》めて、洋傘《こうもり》の雫《しずく》を切って、軽く黒の外套《がいとう》の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱《しご》いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲《がらすがこい》の温室のような気のする、雨気《あまけ》と人の香の、むっと籠《こも》った待合の裡《うち》へ、コツコツと――やはり泥になった――侘《わびし》い靴の尖《さき》を刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。
たしか、中央の台に、まだ大《おおき》な箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと打撞《ぶつか》ったその縮緬の炎から、急に瞳を傍《わき》へ外《そ》らして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。
二
威《おどか》しては不可《いけな》い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛《もたれかか》っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり髯《ひげ》を生《はや》した小白い横顔で、じろりと撓《た》めると、
「上りは停電……下りは故障です。」
と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと極《き》めたようにほとんど機械的に言った。そして頸窪《ぼんのくぼ》をその凭掛
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング