「わッ。」と咽《む》せて、灰吹を掴《つか》んだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。
「ああ、あの児《こ》、障子を一枚開けていな。」
と黒縮緬の袖で払って出家が言った。
宗吉は針の筵《むしろ》を飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓《ひじかけまど》の障子を開けると、颯《さっ》と出る灰の吹雪は、すッと蒼空《あおぞら》に渡って、遥《はるか》に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛《まつげ》に一眸《ひとめ》の北の方《かた》、目の下、一雪崩《ひとなだれ》に崕《がけ》になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南《ひなた》の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。
ト斜《ななめ》に、がッくりと窪《くぼ》んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣《おおむかで》のように胸前《むなさき》に畝《うね》って、突当りに牙《きば》を噛合《かみあ》うごとき、小さな黒塀の忍び返《がえし》の下に、溝《どぶ》から這上《はいあが》った蛆《うじ》の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、麸《ふ》を嘗《な》めるような形が、歴然《ありあり》と、自分《おの》が瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白《まっさお》になった。
ここから認《み》られたに相違ない。
と思う平四郎は、涎《よだれ》と一所に、濡らした膝を、手巾《ハンケチ》で横撫でしつつ、
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息《おおためいき》とともに尻を曳《ひ》いたなごりの笑《わらい》が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……
「お煎《せん》をめしあがれな。」
目の下の崕が切立《きった》てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、倒《さかしま》に落ちてその場で五体を微塵《みじん》にしたろう。
産《うみ》の親を可懐《なつか》しむまで、眉の一片《ひとひら》を庇《かば》ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……
「ちょっと、宅《うち》まで。」
と息を呑んで言った――宅とは露路のその長屋で。
宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠《にげかく》れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の隙《すき》の隅々に立って、飢《うえ》さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。
星も曇った暗き夜《よ》に、
「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」
宗吉はわざと格子戸をそれて、蚯蚓《みみず》の這うように台所から、密《そっ》と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。
間《ま》を隔てた座敷に、艶《あで》やかな影が気勢《けはい》に映って、香水の薫《かおり》は、つとはしり下《もと》にも薫った。が、寂寞《ひっそり》していた。
露路の長屋の赤い燈《あかり》に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿《かむろ》なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音《ね》を憚《はばか》る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖《さいわい》だったのである。
八
「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯《じょうだん》ではありません。」
社殿の裏なる、空茶店《あきちゃみせ》の葦簀《よしず》の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏《いちょう》の幹に凭掛《よりかか》って、アワヤ剃刀を咽喉《のど》に当てた時、すッと音して、滝縞《たきじま》の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から颯《さっ》と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――
剃刀をもぎ取られて後は、茫然《ぼうぜん》として、ほとんど夢心地である。
「まあ! 可《よ》かった。」
と、身を捻《ね》じて、肩を抱きつつ、社《やしろ》の方を片手拝みに、
「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って行《ゆ》くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって当《あて》はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏《かみほとけ》のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可《いけな》い。可《よ》うござんすか、可《い》いかえ、貴方《あなた》。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。可《よう》ござんすか、分りましたか。」
と小児《こども》のように、柔い胸に、帯も扱帯《しごき》もひったりと抱き締めて、
「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様《ののさん》が。」
忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに掛《かか》
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