ったのが、可懐《なつかし》い亡き母の乳房の輪線の面影した。
「まあ、これからという、……女にしても蕾《つぼみ》のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」
その乳《ち》の震《ふるえ》が胸に響く。
「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊《ちぼ》でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ行《ゆ》きましょう。可《い》い塩梅《あんばい》に誰も居ないから。」
促して、急いで脱放しの駒下駄を捜《さぐ》る時、白脛《しらはぎ》に緋《ひ》が散った。お千も慌《あわただ》しかったと見えて、宗吉の穿物《はきもの》までは心着かず、可恐《おそろ》しい処を遁《に》げるばかりに、息せいて手を引いたのである。
魔を除《よ》け、死神を払う禁厭《まじない》であろう、明神の御手洗《みたらし》の水を掬《すく》って、雫《しずく》ばかり宗吉の頭髪《かみ》を濡らしたが、
「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」
と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸《えり》白く、御堂《みどう》をば伏拝み、
「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」
と柄杓《ひしゃく》を重げに口にした。
「動悸《どうき》を御覧なさいよ、私のさ。」
その胸の轟《とどろ》きは、今より先に知ったのである。
「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のお頭《つむ》を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。
……あの坊さんは、高野山とかの、金高《かねだか》なお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが厭味《いやみ》らしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた美人局《つつもたせ》だわね。
私が弱いもんだから、身体《からだ》も度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こん
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