戸をそれて、蚯蚓《みみず》の這うように台所から、密《そっ》と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。
 間《ま》を隔てた座敷に、艶《あで》やかな影が気勢《けはい》に映って、香水の薫《かおり》は、つとはしり下《もと》にも薫った。が、寂寞《ひっそり》していた。
 露路の長屋の赤い燈《あかり》に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿《かむろ》なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音《ね》を憚《はばか》る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖《さいわい》だったのである。

       八

「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯《じょうだん》ではありません。」
 社殿の裏なる、空茶店《あきちゃみせ》の葦簀《よしず》の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏《いちょう》の幹に凭掛《よりかか》って、アワヤ剃刀を咽喉《のど》に当てた時、すッと音して、滝縞《たきじま》の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から颯《さっ》と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――
 剃刀をもぎ取られて後は、茫然《ぼうぜん》として、ほとんど夢心地である。
「まあ! 可《よ》かった。」
 と、身を捻《ね》じて、肩を抱きつつ、社《やしろ》の方を片手拝みに、
「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って行《ゆ》くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって当《あて》はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏《かみほとけ》のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可《いけな》い。可《よ》うござんすか、可《い》いかえ、貴方《あなた》。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。可《よう》ござんすか、分りましたか。」
 と小児《こども》のように、柔い胸に、帯も扱帯《しごき》もひったりと抱き締めて、
「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様《ののさん》が。」
 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに掛《かか》
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