、
「さあ、貴女《あなた》。」
と、甘谷が座蒲団を引攫《ひっさら》って、もとの処へ。……身体《からだ》に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着《よぎ》で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出《そとで》がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。
対《つい》の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、
「さ、さ、貴女。」
と自分は退《の》いて、
「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居《たちい》が石臼《いしうす》を引摺《ひきず》るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気《かっけ》がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。
「可厭《いや》ですことねえ。」
と、婀娜な目で、襖際《ふすまぎわ》から覗《のぞ》くように、友染の裾《すそ》を曳《ひ》いた櫛巻の立姿。
五
桜にはちと早い、木瓜《ぼけ》か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南《ひなた》の薫《かおり》が添って、お千がもとの座に着いた。
向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐《あぐら》を組むのであろう。
「お留守ですか。」
宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を訊《き》いたのである。
縁側の片隅で、
「えへん!」と屋鳴りのするような咳払《せきばらい》を響かせた、便所の裡《なか》で。
「熊沢はここに居《お》るぞう。」
「まあ。」
「随分ですこと、ほほほ。」
と家主《いえぬし》のお妾が、次の室《ま》を台所へ通《とおり》がかりに笑って行《ゆ》くと、お千さんが俯向《うつむ》いて、莞爾《にっこり》して、
「余《あんま》り色気がなさ過ぎるわ。」
「そこが御婦人の毒でげす。」
と甘谷は前掛をポンポンと敲《たた》いて、
「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」
「あら、随分……酷《ひど》いじゃありませんか、甘谷さん、余《あんま》りだよ。」
何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。
「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」
甘谷は立続けに叩頭《おじぎ》をして、
「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を剃《あ
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