、甘味《うま》やの、汚穢やの、ああ、汚穢いぞの、やれ、甘味いぞのう。
朱の盤 (慌《あわただ》しく遮る)やあ、姥《ばあ》さん、歯を当てまい、御馳走が減りはせぬか。
舌長姥 何のいの。(ぐったりと衣紋《えもん》を抜く)取る年の可恐《おそろ》しさ、近頃は歯が悪うて、人間の首や、沢庵《たくあん》の尻尾《しっぽ》はの、かくやにせねば咽喉《のど》へは通らぬ。そのままの形では、金花糖の鯛でさえ、横噛《よこかじ》りにはならぬ事よ。
朱の盤 後生らしい事を言うまい、彼岸は過ぎたぞ。――いや、奥方様、この姥が件《くだん》の舌にて舐《な》めますると、鳥獣《とりけもの》も人間も、とろとろと消えて骨ばかりになりますわ。……そりゃこそ、申さぬことではなかった。お土産の顔つきが、時の間《ま》に、細長うなりました。なれども、過失《あやまち》の功名、死んで変りました人相が、かえって、もとの面体《めんてい》に戻りました。……姫君も御覧ぜい。
亀姫 (扇子を顔に、透かし見る)ああ、ほんになあ。
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侍女等一同、瞬きもせず熟《じっ》と視《み》る。誰も一口食べたそう。
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薄 お前様――あの、皆さんも御覧なさいまし、亀姫様お持たせのこの首は、もし、この姫路の城の殿様の顔に、よく似ているではござんせぬか。
桔梗 真《ほん》に、瓜二つでございますねえ。
夫人 (打頷《うちうなず》く)お亀様、このお土産は、これは、たしか……
亀姫 はい、私が廂《ひさし》を貸す、猪苗代亀ヶ|城《しろ》の主、武田|衛門之介《えもんのすけ》の首でございますよ。
夫人 まあ、貴女《あなた》。(間)私のために、そんな事を。
亀姫 構いません、それに、私がいたしたとは、誰も知りはしませんもの。私が城を出ます時はね、まだこの衛門之介はお妾《めかけ》の膝に凭掛《よりかか》って、酒を飲んでおりました。お大名の癖に意地が汚くってね、鯉汁《こいこく》を一口に食べますとね、魚の腸《はらわた》に針があって、それが、咽喉《のど》へささって、それで亡くなるのでございますから、今頃ちょうどそのお膳が出たぐらいでございますよ。(ふと驚く。扇子を落す)まあ、うっかりして、この咽喉に針がある。(もとどりを取って上ぐ)大変なことをした、お姉様《あねえさま》に刺さったらどうしよう。
夫人 しばらく! 折角、あなたのお土産を、いま、それをお抜きだと、衛門之介も針が抜けて、蘇返《よみがえ》ってしまいましょう。
朱の盤 いかさまな。
夫人 私が気をつけます。可《よ》うござんす。(扇子を添えて首を受取る)お前たち、瓜を二つは知れたこと、この人はね、この姫路の城の主、播磨守とは、血を分けた兄弟よ。
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侍女等目と目を見合わす。
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ちょっと、獅子にお供え申そう。
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みずから、獅子頭の前に供う。獅子、その牙《きば》を開き、首を呑《の》む。首、その口に隠る。
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亀姫 (熟《じっ》と視《み》る)お姉様《あねえさま》、お羨《うらやま》しい。
夫人 え。
亀姫 旦那様が、おいで遊ばす。
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間。――夫人、姫と顔を合す、互に莞爾《かんじ》とす。
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夫人 嘘が真《まこと》に。……お互に……
亀姫 何の不足はないけれど、
夫人 こんな男が欲《ほし》いねえ。――ああ、男と云えば、お亀様、あなたに見せるものがある。――桔梗さん。
桔梗 はい。
夫人 あれを、ちょっと。
桔梗 畏《かしこ》まりました。(立つ。)
朱の盤 (不意に)や、姥殿、獅子のお頭に見惚《みと》れまい。尾籠《びろう》千万。
舌長姥 (時に、うしろ向きに乗出して、獅子頭を視《なが》めつつあり)老人《としより》じゃ、当|館《やかた》奥方様も御許され。見惚れるに無理はないわいの。
朱の盤 いやさ、見惚れるに仔細《しさい》はないが、姥殿、姥殿はそこに居て舌が届く。(苦笑《にがわらい》す。)
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舌長姥思わず正面にその口を蔽《おお》う。侍女等忍びやかに皆笑う。桔梗、鍬形《くわがた》打ったる五枚|錣《しころ》、金の竜頭《たつがしら》の兜《かぶと》を捧げて出づ。夫人と亀姫の前に置く。
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夫人 貴女、この兜はね、この城の、播磨守が、先祖代々の家の宝で、十七の奥蔵《おくぐら》に、五枚錣に九ツの錠《じょう》を下《おろ》して、大切に秘蔵をしておりますのをね、今日お見えの嬉しさに、実は、貴女に上げましょうと思って取出しておきました。けれども、御心入《おこころいり》の貴女のお土産《みや》で、私のはお恥しくなりました。それだから、ただ思っただけの、申訳に、お目に掛けますばかり。
亀姫 いいえ、結構、まあ、お目覚しい。
夫人 差上げません。第一、あとで気がつきますとね、久しく蔵込《しまいこ》んであって、かび臭い。蘭麝《らんじゃ》の薫《かおり》も何にもしません。大阪城の落ちた時の、木村長門守の思切ったようなのだと可《い》いけれど、……勝戦《かちいくさ》のうしろの方で、矢玉の雨宿《あまやどり》をしていた、ぬくいのらしい。御覧なさい。
亀姫 (鉢金《はちがね》の輝く裏を返す)ほんに、討死をした兜ではありませんね。
夫人 だから、およしなさいまし、葛や、しばらくそこへ。
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指図のまま、葛、その兜を獅子頭の傍《かたえ》に置く。
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お帰りまでに、きっとお気に入るものを調えて上げますよ。
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亀姫 それよりか、お姉様《あねえさま》、早く、あのお約束の手鞠《てまり》を突いて遊びましょうよ。
夫人 ああ、遊びましょう。――あちらへ。――城の主人《あるじ》の鷹狩が、雨風に追われ追われて、もうやがて大手さきに帰る時分、貴女は沢山《たんと》お声がいいから、この天守から美しい声が響くと、また立騒いでお煩《うるさ》い。
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亀姫のかしずきたち、皆立ちかかる。
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いや、御先達、お山伏は、女たちとここで一献《いっこん》お汲《く》みがよいよ。
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朱の盤 吉祥天女、御功徳でござる。(肱《ひじ》を張って叩頭《こうとう》す。)
亀姫 ああ、姥、お前も大事ない、ここに居てお相伴をしや。――お姉様《あねえさま》に、私から我儘《わがまま》をしますから。
夫人 もっともさ。
舌長姥 もし、通草《あけび》、山ぐみ、山葡萄、手造りの猿の酒、山蜂の蜜、蟻の甘露、諸白《もろはく》もござります、が、お二人様のお手鞠は、唄を聞きますばかりでも寿命の薬と承る。かように年を取りますと、慾《よく》も、得も、はは、覚えませぬ。ただもう、長生《ながいき》がしとうござりましてのう。
朱の盤 や、姥殿、その上のまた慾があるかい。
舌長姥 憎まれ山伏、これ、帰り途《みち》に舐《な》められさっしゃるな。(とぺろりと舌。)
朱の盤 (頭を抱う)わあ、助けてくれ、角が縮まる。
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侍女たち笑う。
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舌長姥 さ、お供をいたしましょうの。
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夫人を先に、亀姫、薄と女《め》の童《わらわ》等、皆行《ゆ》く。五人の侍女と朱の盤あり。
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桔梗 お先達、さあさあ、お寛《くつろ》ぎなさいまし。
朱の盤 寛がいで何とする。やあ、えいとな。
萩 もし、面白いお話を聞かして下さいましな。
朱の盤 聞かさいで何とする。(扇を笏《しゃく》に)それ、山伏と言っぱ山伏なり。兜巾《ときん》と云っぱ兜巾なり。お腰元と言っぱ美人なり。恋路と言っぱ闇夜《やみよ》なり。野道|山路《やまみち》厭《いと》いなく、修行積んだる某《それがし》が、このいら高の数珠《じゅず》に掛け、いで一祈り祈るならば、などか利験《りげん》のなかるべき。橋の下の菖蒲《しょうぶ》は、誰が植えた菖蒲ぞ、ぼろぼん、ぼろぼん、ぼろぼんのぼろぼん。
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侍女等わざとはらはらと逃ぐ、朱の盤五人を追廻す。
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ぼろぼんぼろぼん、ぼろぼんぼろぼん。(やがて侍女に突かれて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒る)などか利験のなかるべき。
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葛 利験はござんしょうけれどな、そんな話は面白うござんせぬ。
朱の盤 (首を振って)ぼろぼん、ぼろぼん。
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鞠唄聞ゆ。
――私《わし》が姉《あね》さん三人ござる、一人姉さん鼓が上手。
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一人姉さん太鼓が上手。
いっちよいのが下谷《したや》にござる。
下谷一番|達《だて》しゃでござる。二両で帯買うて、
三両で括《く》けて、括けめ括けめに七総《ななふさ》さげて、
折りめ折りめに、いろはと書いて。――
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葛 さあ、お先達、よしの葉の、よい女郎衆ではござんせぬが、参ってお酌。(扇を開く。)
朱の盤 ぼろぼんぼろぼん。(同じく扇子にうく)おとととと、ちょうどあるちょうどある。いで、お肴《さかな》を所望しょう。……などか利験のなかるべき。
桔梗 その利験ならござんしょう。女郎花さん、撫子さん、ちょっと、お立ちなさいまし。
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両女《ふたり》立つ。
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ここをどこぞと、もし人問わば、ここは駿河《するが》の
府中の宿よ、人に情《なさけ》を掛川の宿よ。雉子《きじ》の雌鳥《めんどり》
ほろりと落いて、打ちきせて、しめて、しょのしょの
いとしよの、そぞろいとしゅうて、遣瀬《やるせ》なや。
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朱の盤 やんややんや。
女郎花 今度はお先達、さあ。
葛 貴方《あなた》がお立ちなさいまし。
朱の盤 ぼろぼん、ぼろぼん。此方《こなた》衆|思《おもい》ざしを受きょうならば。
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侍女五人扇子を開く、朱の盤杯を一順す。すなわち立つ。腰なる太刀をすらりと抜き、以前の兜を切先《きっさき》にかけて、衝《つ》と天井に翳《かざ》し、高脛《たかずね》に拍子を踏んで――
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戈※[#「金+延」、第3水準1−93−16]剣戟《かせんけんげき》を降らすこと電光の如くなり。
盤石《ばんじゃく》巌《いわお》を飛ばすこと春の雨に相同じ。
然《しか》りとはいえども、天帝の身には近づかで、
修羅かれがために破らる。
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――お立ち――、(陰より諸声《もろごえ》。)
手早く太刀を納め、兜をもとに直す、一同つい居る。
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亀姫 お姉様《あねえさま》、今度は貴方が、私へ。
夫人 はい。
舌長姥 お早々と。
夫人 (頷《うなず》きつつ、連れて廻廊にかかる。目の下|遥《はるか》に瞰下《みおろ》す)ああ、鷹狩が帰って来た。
亀姫 (ともに、瞰下す)先刻《さっき》私が参る時は、蟻のような行列が、その鉄砲で、松並木を走っていました。ああ、首に似た殿様が、馬に乗って反返《そりかえ》って、威張って、本丸へ入って来ますね。
夫人 播磨守さ。
亀姫 まあ、翼の、白い羽の雪のような、いい鷹を持っているよ。
夫人 おお。(軽く胸を打つ)貴女。(間)あの鷹を取って上げましょうね。
亀姫 まあ、どうしてあれを。
夫人 見ておいで、、それは姫路の、富だもの。
[#こ
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