。それにつけましても、お前様おかえりを、お待ち申上げました。――そしてまあ、いずれへお越し遊ばしました。
夫人 夜叉《やしゃ》ヶ|池《いけ》まで参ったよ。
薄 おお、越前国|大野郡《おおのごおり》、人跡絶えました山奥の。
萩 あの、夜叉ヶ池まで。
桔梗 お遊びに。
夫人 まあ、遊びと言えば遊びだけれども、大池のぬしのお雪様に、ちっと……頼みたい事があって。
薄 私《わたくし》はじめ、ここに居《お》ります、誰ぞお使いをいたしますもの、御自分おいで遊ばして、何と、雨にお逢《あ》いなさいましてさ。
夫人 その雨を頼みに行《ゆ》きました。――今日はね、この姫路の城……ここから視《み》れば長屋だが、……長屋の主人、それ、播磨守《はりまのかみ》が、秋の野山へ鷹狩《たかがり》に、大勢で出掛けました。皆《みんな》知っておいでだろう。空は高し、渡鳥、色鳥の鳴く音《ね》は嬉しいが、田畑と言わず駈廻《かけまわ》って、きゃっきゃっと飛騒ぐ、知行とりども人間の大声は騒がしい。まだ、それも鷹ばかりなら我慢もする。近頃は不作法な、弓矢、鉄砲で荒立つから、うるささもうるさしさ。何よりお前、私のお客、この大空の霧を渡って輿《かご》でおいでのお亀様にも、途中失礼だと思ったから、雨風と、はたた神で、鷹狩の行列を追崩す。――あの、それを、夜叉ヶ池のお雪様にお頼み申しに参ったのだよ。
薄 道理こそ時ならぬ、急な雨と存じました。
夫人 この辺《あたり》は雨だけかい。それは、ほんの吹降りの余波《なごり》であろう。鷹狩が遠出をした、姫路野の一里塚のあたりをお見な。暗夜《やみよ》のような黒い雲、眩《まばゆ》いばかりの電光《いなびかり》、可恐《おそろし》い雹《ひょう》も降りました。鷹狩の連中は、曠野《あらの》の、塚の印《しるし》の松の根に、澪《みお》に寄った鮒《ふな》のように、うようよ集《たか》って、あぶあぶして、あやい笠が泳ぐやら、陣羽織が流れるやら。大小をさしたものが、ちっとは雨にも濡れたが可《い》い。慌てる紋は泡沫《あぶく》のよう。野袴《のばかま》の裾《すそ》を端折《はしょ》って、灸《きゅう》のあとを出すのがある。おお、おかしい。(微笑《ほほえ》む)粟粒《あわつぶ》を一つ二つと算《かぞ》えて拾う雀でも、俄雨《にわかあめ》には容子《ようす》が可い。五百石、三百石、千石一人で食《は》むものが、その笑止さと言ってはない。おかしいやら、気の毒やら、ねえ、お前。
薄 はい。
夫人 私はね、群鷺《むらさぎ》ヶ|峰《みね》の山の端《は》に、掛稲《かけいね》を楯《たて》にして、戻道《もどりみち》で、そっと立って視《なが》めていた。そこには昼の月があって、雁金《かりがね》のように(その水色の袖を圧《おさ》う)その袖に影が映った。影が、結んだ玉ずさのようにも見えた。――夜叉ヶ池のお雪様は、激《はげし》いなかにお床《ゆか》しい、野はその黒雲《くろくも》、尾上《おのえ》は瑠璃《るり》、皆、あの方のお計らい。それでも鷹狩の足も腰も留めさせずに、大風と大雨で、城まで追返しておくれの約束。鷹狩たちが遠くから、松を離れて、その曠野を、黒雲の走る下に、泥川のように流れてくるに従って、追手《おいて》の風の横吹《よこしぶき》。私が見ていたあたりへも、一|村雨《むらさめ》颯《さっ》とかかったから、歌も読まずに蓑をかりて、案山子の笠をさして来ました。ああ、そこの蜻蛉《とんぼ》と鬼灯《ほおずき》たち、小児《こども》に持たして後ほどに返しましょう。
薄 何の、それには及びますまいと存じます。
夫人 いえいえ、農家のものは大切だから、等閑《なおざり》にはなりません。
薄 その儀は畏《かしこま》りました。お前様、まあ、それよりも、おめしかえを遊ばしまし、おめしものが濡れまして、お気味が悪うござりましょう。
夫人 おかげで濡れはしなかった。気味の悪い事もないけれど、隔てぬ中の女同士も、お亀様に、このままでは失礼だろう。(立つ)着換えましょうか。
女郎花 ついでに、お髪《ぐし》も、夫人様《だんなさま》
夫人 ああ、あげてもらおうよ。
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夫人に続いて、一同、壁の扉に隠る。女童《めのわらわ》のこりて、合唱す――
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ここはどこの細道じゃ、細道じゃ。
天神様の細道じゃ、細道じゃ。
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時に棟に通ずる件《くだん》の階子《はしご》を棟よりして入来《いりきた》る、岩代国《いわしろのくに》麻耶郡《まやごおり》猪苗代の城、千畳敷の主《ぬし》、亀姫の供頭《ともがしら》、朱の盤坊、大山伏の扮装《いでたち》、頭に犀《さい》のごとき角一つあり、眼《まなこ》円《つぶら》かに面《つら》の色朱よりも赤く、手と脚、瓜《うり》に似て青し。白布《しろぬの》にて蔽《おお》うたる一個の小桶《こおけ》を小脇に、柱をめぐりて、内を覗《のぞ》き、女童の戯《たわむ》るるを視《み》つつ破顔して笑う
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朱の盤 かちかちかちかち。
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歯を噛鳴《かみな》らす音をさす。女童等、走り近《ちかづ》く時、面《つら》を差寄せ、大口|開《あ》く。
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もおう!(獣の吠《ほ》ゆる真似して威《おど》す。)
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女董一 可厭《いや》な、小父《おじ》さん。
女童二 可恐《こわ》くはありませんよ。
朱の盤 だだだだだ。(濁れる笑《わらい》)いや、さすがは姫路お天守の、富姫御前の禿《かむろ》たち、変化心《へんげごころ》備わって、奥州第一の赭面《あかつら》に、びくともせぬは我折《がお》れ申す。――さて、更《あらた》めて内方《うちかた》へ、ものも、案内を頼みましょう。
女童三 屋根から入った小父さんはえ?
朱の盤 これはまた御挨拶《ごあいさつ》だ。ただ、猪苗代から参ったと、ささ、取次、取次。
女童一 知らん。
女童三 べいい。(赤べろする。)
朱の盤 これは、いかな事――(立直る。大音に)ものも案内。
薄 どうれ。(壁より出迎う)いずれから。
朱の盤 これは岩代国|会津郡《あいづごおり》十文字ヶ原|青五輪《あおごわ》のあたりに罷在《まかりあ》る、奥州変化の先達《せんだつ》、允殿館《いんでんかん》のあるじ朱の盤坊でござる。すなわち猪苗代の城、亀姫君の御供をいたし罷出《まかりで》ました。当お天守富姫様へ御取次を願いたい。
薄 お供御苦労に存じ上げます。あなた、お姫様《ひいさま》は。
朱の盤 (真仰向《あおむ》けに承塵《てんじょう》を仰ぐ)屋の棟に、すでに輿《かご》をばお控えなさるる。
薄 夫人《うちかた》も、お待兼ねでございます。
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手を敲《たた》く。音につれて、侍女三人出づ。斉《ひと》しく手をつく。
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早や、御入《おんい》らせ下さりませ。
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朱の盤 (空へ云う)輿傍《かごわき》へ申す。此方《こなた》にもお待《まち》うけじゃ。――姫君、これへお入《い》りのよう、舌長姥《したながうば》、取次がっせえ。
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階子《はしご》の上より、真先《まっさき》に、切禿《きりかむろ》の女童、うつくしき手鞠《てまり》を両袖に捧げて出づ。
亀姫、振袖、裲襠《うちがけ》、文金の高髷《たかまげ》、扇子を手にす。また女童、うしろに守刀《まもりがたな》を捧ぐ。あと圧《おさ》えに舌長姥、古びて黄ばめる練衣《ねりぎぬ》、褪《あ》せたる紅《あか》の袴《はかま》にて従い来《きた》る。
天守夫人、侍女を従え出で、設けの座に着く。
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薄 (そと亀姫を仰ぐ)お姫様《ひいさま》。
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出むかえたる侍女等、皆ひれ伏す。
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亀姫 お許し。
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しとやかに通り座につく。と、夫人と面《おもて》を合すとともに、双方よりひたと褥《しとね》の膝を寄す。
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夫人 (親しげに微笑《ほほえ》む)お亀様。
亀姫 お姉様《あねえさま》、おなつかしい。
夫人 私もお可懐《なつかし》い。――
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――(間。)
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女郎花 夫人《おくさま》。(と長煙管《ながぎせる》にて煙草《たばこ》を捧ぐ。)
夫人 (取って吸う。そのまま吸口を姫に渡す)この頃は、めしあがるそうだね。
亀姫 ええ、どちらも。(うけて、その煙草を吸いつつ、左の手にて杯の真似をす。)
夫人 困りましたねえ。(また打笑《うちえ》む。)
亀姫 ほほほ、貴女《あなた》を旦那様にはいたすまいし。
夫人 憎らしい口だ。よく、それで、猪苗代から、この姫路まで――道中五百里はあろうねえ、……お年寄。
舌長姥 御意にござります。……海も山もさしわたしに、風でお運び遊ばすゆえに、半日|路《じ》には足りませぬが、宿々《しゅくじゅく》を歩《ひろ》いましたら、五百里……されば五百三十里、もそっともござりましょうぞ。
夫人 ああね。(亀姫に)よく、それで、手鞠をつきに、わざわざここまでおいでだね。
亀姫 でございますから、お姉様《あねえさま》は、私がお可愛《かわゆ》うございましょう。
夫人 いいえ、お憎らしい。
亀姫 御勝手。(扇子を落す。)
夫人 やっぱりお可愛い。(その背を抱《いだ》き、見返して、姫に附添える女童に)どれ、お見せ。(手鞠を取る)まあ、綺麗な、私にも持って来て下されば可《よ》いものを。
朱の盤 ははッ。(その白布の包を出《いだ》し)姫君より、貴女様へ、お心入れの土産がこれに。申すは、差出がましゅうござるなれど、これは格別、奥方様の思召《おぼしめ》しにかないましょう。…何と、姫君。(色を伺う。)
亀姫 ああ、お開き。お姉様の許《とこ》だから、遠慮はない。
夫人 それはそれは、お嬉しい。が、お亀様は人が悪い、中は磐梯山《ばんだいさん》の峰の煙か、虚空蔵《こくうぞう》の人魂《ひとだま》ではないかい。
亀姫 似たもの。ほほほほほ。
夫人 要りません、そんなもの。
亀姫 上げません。
朱の盤 いやまず、(手を挙げて制す)おなかがよくてお争い、お言葉の花が蝶のように飛びまして、お美しい事でござる。……さて、此方《こなた》より申す儀ではなけれども、奥方様、この品ばかりはお可厭《いや》ではござるまい。
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包を開く、首桶《くびおけ》。中より、色白き男の生首を出し、もとどりを掴《つか》んで、ずうんと据う。
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や、不重宝《ぶちょうほう》、途中|揺溢《ゆりこぼ》いて、これは汁《つゆ》が出ました。(その首、血だらけ)これ、姥《うば》殿、姥殿。
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舌長姥 あいあい、あいあい。
朱の盤 御進物が汚れたわ。鱗《うろこ》の落ちた鱸《すずき》の鰭《ひれ》を真水で洗う、手の悪い魚売人には似たれども、その儀では決してない。姥殿、此方《こなた》、一拭《ひとぬぐ》い、清めた上で進ぜまいかの。
夫人 (煙管を手に支《つ》き、面《おもて》正しく屹《きっ》と視《み》て)気遣いには及びません、血だらけなは、なおおいしかろう。
舌長姥 こぼれた羹《あつもの》は、埃溜《はきだめ》の汁でござるわの、お塩梅《あんばい》には寄りませぬ。汚穢《むさ》や、見た目に、汚穢や。どれどれ掃除して参らしょうぞ。(紅《あか》の袴《はかま》にて膝行《いざ》り出で、桶を皺手《しわで》にひしと圧《おさ》え、白髪《しらが》を、ざっと捌《さば》き、染めたる歯を角《けた》に開け、三尺ばかりの長き舌にて生首の顔の血をなめる)汚穢や、(ぺろぺろ)汚穢やの。(ぺろぺろ)汚穢やの、汚穢やの、ああ
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