手をつく。階子の上より、まず水色の衣《きぬ》の褄《つま》、裳《もすそ》を引く。すぐに蓑《みの》を被《かつ》ぎたる姿見ゆ。長《たけ》なす黒髪、片手に竹笠、半ば面《おもて》を蔽《おお》いたる、美しく気高き貴女《きじょ》、天守夫人、富姫。
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夫人 (その姿に舞い縋《すが》る蝶々の三つ二つを、蓑を開いて片袖に受く)出迎えかい、御苦労だね。(蝶に云う。)
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――お帰り遊ばせ、――お帰り遊ばせ――侍女等、口々に言迎う。――
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夫人 時々、ふいと気まかせに、野分《のわき》のような出歩行《である》きを、……
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ハタと竹笠を落す。女郎花、これを受け取る。貴女の面《おもて》、凄《すご》きばかり白く※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けたり。
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露も散らさぬお前たち、花の姿に気の毒だね。(下りかかりて壇に弱腰、廊下に裳《もすそ》。)
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薄 勿体《もったい》ないことを御意遊ばす。――まあ、お前様、あんなものを召しまして。
夫人 似合ったかい。
薄 なおその上に、御前様《ごぜんさま》、お痩《や》せ遊ばしておがまれます。柳よりもお優しい、すらすらと雨の刈萱《かるかや》を、お被《か》け遊ばしたようにござります。
夫人 嘘ばっかり。小山田の、案山子《かかし》に借りて来たのだものを。
薄 いいえ、それでも貴女《あなた》がめしますと、玉、白銀《しろがね》、揺《ゆるぎ》の糸の、鎧《よろい》のようにもおがまれます。
夫人 賞《ほ》められてちっと重くなった。(蓑を脱ぐ)取っておくれ。
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撫子、立ち、うけて欄干にひらりと掛く。
蝶の数、その蓑に翼を憩う。……夫人、獅子頭に会釈しつつ、座に、褥《しとね》に着く。脇息《きょうそく》。
侍女たちかしずく。
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少し草臥《くたび》れましたよ。……お亀様はまだお見えではなかったろうね。
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薄 はい、お姫様《ひいさま》は、やがてお入《い》りでござりましょう。それにつけましても、お前様おかえりを、お待ち申上げました。――そしてまあ、いずれへお越し遊ばしました。
夫人 夜叉《やしゃ》ヶ|池《いけ》まで参ったよ。
薄 おお、越前国|大野郡《おおのごおり》、人跡絶えました山奥の。
萩 あの、夜叉ヶ池まで。
桔梗 お遊びに。
夫人 まあ、遊びと言えば遊びだけれども、大池のぬしのお雪様に、ちっと……頼みたい事があって。
薄 私《わたくし》はじめ、ここに居《お》ります、誰ぞお使いをいたしますもの、御自分おいで遊ばして、何と、雨にお逢《あ》いなさいましてさ。
夫人 その雨を頼みに行《ゆ》きました。――今日はね、この姫路の城……ここから視《み》れば長屋だが、……長屋の主人、それ、播磨守《はりまのかみ》が、秋の野山へ鷹狩《たかがり》に、大勢で出掛けました。皆《みんな》知っておいでだろう。空は高し、渡鳥、色鳥の鳴く音《ね》は嬉しいが、田畑と言わず駈廻《かけまわ》って、きゃっきゃっと飛騒ぐ、知行とりども人間の大声は騒がしい。まだ、それも鷹ばかりなら我慢もする。近頃は不作法な、弓矢、鉄砲で荒立つから、うるささもうるさしさ。何よりお前、私のお客、この大空の霧を渡って輿《かご》でおいでのお亀様にも、途中失礼だと思ったから、雨風と、はたた神で、鷹狩の行列を追崩す。――あの、それを、夜叉ヶ池のお雪様にお頼み申しに参ったのだよ。
薄 道理こそ時ならぬ、急な雨と存じました。
夫人 この辺《あたり》は雨だけかい。それは、ほんの吹降りの余波《なごり》であろう。鷹狩が遠出をした、姫路野の一里塚のあたりをお見な。暗夜《やみよ》のような黒い雲、眩《まばゆ》いばかりの電光《いなびかり》、可恐《おそろし》い雹《ひょう》も降りました。鷹狩の連中は、曠野《あらの》の、塚の印《しるし》の松の根に、澪《みお》に寄った鮒《ふな》のように、うようよ集《たか》って、あぶあぶして、あやい笠が泳ぐやら、陣羽織が流れるやら。大小をさしたものが、ちっとは雨にも濡れたが可《い》い。慌てる紋は泡沫《あぶく》のよう。野袴《のばかま》の裾《すそ》を端折《はしょ》って、灸《きゅう》のあとを出すのがある。おお、おかしい。(微笑《ほほえ》む)粟粒《あわつぶ》を一つ二つと算《かぞ》えて拾う雀でも、俄雨《にわかあめ》には容子《ようす》が可い。五百石、三百石、千石一人で食《は》むものが、その笑止さと言ってはな
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