かな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯《だいみょう》なんどというものが、思上った行過ぎな、あの、鷹を、ただ一人じめに自分のものと、つけ上りがしています。貴方はそうは思いませんか。
図書 (沈思す、間)美しく、気高い、そして計り知られぬ威のある、姫君。――貴方にはお答が出来かねます。
夫人 いえ、いえ、かどだてて言籠《いいこ》めるのではありません。私の申すことが、少しなりともお分りになりましたら、あのその筋道の分らない二三の丸、本丸、太閤丸《たいこうまる》、廓内《くるわうち》、御家中の世間へなど、もうお帰りなさいますな。白銀《しろがね》、黄金《こがね》、球、珊瑚《さんご》、千石万石の知行より、私が身を捧げます。腹を切らせる殿様のかわりに、私の心を差上げます、私の生命《いのち》を上げましょう。貴方お帰りなさいますな。
図書 迷いました、姫君。殿に金鉄の我が心も、波打つばかり悩乱をいたします。が、決心が出来ません。私《わたくし》は親にも聞きたし、師にも教えられたし、書もつにも聞かねばなりません。お暇《いとま》を申上げます。
夫人 (歎息す)ああ、まだ貴方は、世の中に未練がある。それではお帰りなさいまし。(この時蝋燭を雪洞に)はい。
図書 途方に暮れつつ参ります。迷《まよい》の多い人間を、あわれとばかり思召せ。
夫人 ああ、優しいそのお言葉で、なお帰したくなくなった。(袂《たもと》を取る。)
図書 (屹《きっ》として袖を払う)強いて、たって、お帰しなくば、お抵抗《てむかい》をいたします。
夫人 (微笑《ほほえ》み)あの私に。
図書 おんでもない事。
夫人 まあ、お勇ましい、凜《りり》々しい。あの、獅子に似た若いお方、お名が聞きたい。
図書 夢のような仰せなれば、名のありなしも覚えませぬが、姫川図書之助と申します。
夫人 可懐《なつかし》い、嬉しいお名、忘れません。
図書 以後、お天守|下《した》の往《ゆき》かいには、誓って礼拝をいたします。――御免。(衝《つっ》と立つ。)
夫人 ああ、図書様、しばらく。
図書 是非もない、所詮《しょせん》活《い》けてはお帰しない掟《おきて》なのでございますか。
夫人 ほほほ、播磨守の家中とは違います。ここは私の心一つ、掟なぞは何にもない。
図書 それを、お呼留め遊ばしたは。
夫人 おはなむけがあるのでござんす。――人間は疑深い。卑怯《ひきょう》な、臆病《おくびょう》な、我儘《わがまま》な、殿様などはなおの事。貴方がこの五重へ上って、この私を認めたことを誰もほんとうにはせぬであろう。清い、爽かな貴方のために、記念《しるし》の品をあげましょう。(静《しずか》に以前の兜《かぶと》を取る)――これを、その記念《しるし》にお持ちなさいまし。
図書 存じも寄らぬ御《おん》たまもの、姫君に向い、御辞退はかえって失礼。余り尊い、天晴《あっぱれ》な御兜《おんかぶと》。
夫人 金銀は堆《うずたか》けれど、そんなにいい細工ではありません。しかし、武田には大切な道具。――貴方、見覚えがありますか。
図書 (疑《うたがい》の目を凝《こら》しつつあり)まさかとは存ずるなり、私《わたくし》とても年に一度、虫干の外には拝しませぬが、ようも似ました、お家の重宝《ちょうほう》、青竜の御兜。
夫人 まったく、それに違いありません。
図書 (愕然《がくぜん》とす。急に)これにこそ足の爪立《つまだ》つばかり、心急ぎがいたします、御暇《おいとま》を申うけます。
夫人 今度来ると帰しません。
図書 誓って、――仰せまでもありません。
夫人 さらば。
図書 はっ。(兜を捧げ、やや急いで階子《はしご》に隠る。)
夫人 (ひとりもの思い、机に頬杖《ほおづえ》つき、獅子にもの言う)貴方、あの方を――私《わたくし》に下さいまし。
薄 (静に出づ)お前様。
夫人 薄か。
薄 立派な方でございます。
夫人 今まで、あの人を知らなかった、目の及ばなかった私は恥かしいよ。
薄 かねてのお望みに叶《かの》うた方を、何でお帰しなさいました。
夫人 生命《いのち》が欲《ほし》い。抵抗《てむかい》をすると云うもの。
薄 御一所に、ここにお置き遊ばすまで、何の、生命《いのち》をお取り遊ばすのではございませんのに。
夫人 あの人たちの目から見ると、ここに居るのは活《い》きたものではないのだと思います。
薄 それでは、貴方の御容色《ごきりょう》と、そのお力で、無理にもお引留めが可《よ》うございますのに。何の、抵抗《てむかい》をしました処で。
夫人 いや、容色《きりょう》はこちらからは見せたくない。力で、人を強いるのは、播磨守なんぞの事、真《まこと》の恋は、心と心、……(軽く)薄や。
薄 は。
夫人 しかし、そうは云うものの、白鷹を据えた、鷹匠《たかじょう》だ
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