にて、燈《ともしび》を下に、壇に隠る。
鐘の音。
時に一体の大入道、面《つら》も法衣《ころも》も真黒《まっくろ》なるが、もの陰より甍《いらか》を渡り梢《こずえ》を伝うがごとくにして、舞台の片隅を伝い行《ゆ》き、花道なる切穴の口に踞《うずく》まる。
鐘の音。
図書、その切穴より立顕《たちあらわ》る。
夫人すっと座を立ち、正面、鼓の緒の欄干に立ち熟《じっ》と視《み》る時、図書、雪洞を翳《かざ》して高く天守を見返す、トタンに大入道さし覗《のぞ》きざまに雪洞をふっと消す。図書|身構《みがまえ》す。大入道、大手を拡げてその前途《ゆくて》を遮る。
鐘の音。
侍女等、凜々《りり》しき扮装《いでたち》、揚幕より、懐剣、薙刀《なぎなた》を構えて出づ。図書扇子を抜持ち、大入道を払い、懐剣に身を躱《かわ》し、薙刀と丁《ちょう》と合わす。かくて一同を追込み、揚幕際に扇を揚げ、屹《きっ》と天守を仰ぐ。
鐘の音。
夫人、従容《しょうよう》として座に返る。図書、手探りつつもとの切穴を捜《さぐ》る。(間)その切穴に没す。しばらくして舞台なる以前の階子の口より出づ。猶予《ためら》わず夫人に近づき、手をつく。
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夫人 (先んじて声を掛く。穏《おだやか》に)また見えたか。
図書 はっ、夜陰と申し、再度|御左右《おそう》を騒がせ、まことに恐入りました。
夫人 何しに来ました。
図書 御天守の三階中壇まで戻りますと、鳶《とび》ばかり大《おおき》さの、野衾《のぶすま》かと存じます、大蝙蝠《おおこうもり》の黒い翼に、燈《ともしび》を煽《あお》ぎ消されまして、いかにとも、進退度を失いましたにより、灯を頂きに参りました。
夫人 ただそれだけの事に。……二度とおいででないと申した、私の言葉を忘れましたか。
図書 針ばかり片割月《かたわれづき》の影もささず、下に向えば真の暗黒《やみ》。男が、足を踏みはずし、壇を転がり落ちまして、不具《かたわ》になどなりましては、生効《いきがい》もないと存じます。上を見れば五重のここより、幽《かすか》にお燈《あかり》がさしました。お咎《とが》めをもって生命をめさりょうとも、男といたし、階子から落ちて怪我《けが》をするよりはと存じ、御戒《おんいましめ》をも憚《はばか》らず推参いたしてございます。
夫人 (莞爾《にっこり》と笑む)ああ、爽《さわや》かなお心、そして、貴方はお勇《いさま》しい。燈《あかり》を点《つ》けて上げましょうね。(座を寄す。)
図書 いや、お手ずからは恐多い。私《わたくし》が。
夫人 いえいえ、この燈《ともしび》は、明星、北斗星、竜の燈、玉の光もおなじこと、お前の手では、蝋燭《ろうそく》には点《つ》きません。
図書 ははッ。(瞳を凝《こら》す。)
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夫人、世話めかしく、雪洞《ぼんぼり》の蝋を抜き、短檠《たんけい》の灯を移す。燭《しょく》をとって、熟《じっ》と図書の面《おもて》を視《み》る、恍惚《うっとり》とす。
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夫人 (蝋燭を手にしたるまま)帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う。
図書 ええ。
夫人 貴方は、播磨が貴方に、切腹を申しつけたと言いました。それは何の罪でございます。
図書 私《わたくし》が拳《こぶし》に据えました、殿様が日本一とて御秘蔵の、白い鷹を、このお天守へ逸《そら》しました、その越度《おちど》、その罪過でございます。
夫人 何、鷹をそらした、その越度、その罪過、ああ人間というものは不思議な咎《とが》を被《おお》せるものだね。その鷹は貴方が勝手に鳥に合せたのではありますまい。天守の棟に、世にも美しい鳥を視《み》て、それが欲しさに、播磨守が、自分で貴方にいいつけて、勝手に自分でそらしたものを、貴方の罪にしますのかい。
図書 主《しゅう》と家来でございます。仰せのまま生命《いのち》をさし出しますのが臣たる道でございます。
夫人 その道は曲っていましょう。間違ったいいつけに従うのは、主人に間違った道を踏ませるのではありませんか。
図書 けれども、鷹がそれました。
夫人 ああ、主従とかは可恐《おそろ》しい。鷹とあの人間の生命《いのち》とを取《とり》かえるのでございますか。よしそれも、貴方が、貴方の過失《あやまち》なら、君と臣というもののそれが道なら仕方がない。けれども、播磨がさしずなら、それは播磨の過失というもの。第一、鷹を失ったのは、貴方ではありません。あれは私が取りました。
図書 やあ、貴方が。
夫人 まことに。
図書 ええ、お怨《うら》み申上ぐる。(刀に手を掛く。)
夫人 鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風の爽
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