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亀姫 お心づくしお嬉しや。さらば。
夫人 さらばや。
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寂寞《せきばく》、やがて燈火《ともしび》の影に、うつくしき夫人の姿。舞台にただ一人のみ見ゆ。夫人うしろむきにて、獅子頭に対し、机に向い巻ものを読みつつあり。間《ま》を置き、女郎花、清らかなる小掻巻《こがいまき》を持ち出で、静《しずか》に夫人の背《せな》に置き、手をつかえて、のち去る。――
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ここはどこの細道じゃ、細道じゃ。
天神様の細道じゃ、細道じゃ。
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舞台一方の片隅に、下の四重に通ずべき階子《はしご》の口あり。その口より、まず一《ひとつ》の雪洞《ぼんぼり》顕《あらわ》れ、一廻りあたりを照す。やがて衝《つ》と翳《かざ》すとともに、美丈夫、秀でたる眉に勇壮の気満つ。黒羽二重の紋着《もんつき》、萌黄《もえぎ》の袴《はかま》、臘鞘《ろざや》の大小にて、姫川|図書之助《ずしょのすけ》登場。唄をききつつ低徊《ていかい》し、天井を仰ぎ、廻廊を窺《うかが》い、やがて燈《ともしび》の影を視《み》て、やや驚く。ついで几帳《きちょう》を認む。彼が入《い》るべき方《かた》に几帳を立つ。図書は躊躇《ちゅうちょ》の後決然として進む。瞳《ひとみ》を定めて、夫人の姿を認む。剣夾《つか》に手を掛け、気構えたるが、じりじりと退《さが》る。
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夫人 (間)誰。
図書 はっ。(と思わず膝を支《つ》く)某《それがし》。
夫人 (面《おもて》のみ振向く、――無言。)
図書 私《わたくし》は、当城の大守に仕うる、武士の一人《いちにん》でございます。
夫人 何しに見えた。
図書 百年以来、二重三重までは格別、当お天守五重までは、生《しょう》あるものの参った例《ためし》はありませぬ。今宵、大殿の仰せに依って、私《わたくし》、見届けに参りました。
夫人 それだけの事か。
図書 且つまた、大殿様、御秘蔵の、日本一の鷹がそれまして、お天守のこのあたりへ隠れました。行方を求めよとの御意でございます。
夫人 翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手な処へ飛ぶ、とお言いなさるが可《よ》い。――用はそれだけか。
図書 別に余の儀は承りませぬ。
夫人 五重に参って、見届けた上、いかが計らえとも言われなかったか。
図書 いや、承りませぬ。
夫人 そして、お前も、こう見届けた上に、どうしようとも思いませぬか。
図書 お天守は、殿様のものでございます。いかなる事がありましょうとも、私《わたくし》一存にて、何と計らおうとも決して存じませぬ。
夫人 お待ち。この天守は私のものだよ。
図書 それは、貴方《あなた》のものかも知れませぬ。また殿様は殿様で、御自分のものだと御意遊ばすかも知れませぬ。しかし、いずれにいたせ、私《わたくし》のものでないことは確《たしか》でございます。自分のものでないものを、殿様の仰せも待たずに、どうしようとも思いませぬ。
夫人 すずしい言葉だね、その心なれば、ここを無事で帰られよう。私も無事に帰してあげます。
図書 冥加《みょうが》に存じます。
夫人 今度は、播磨が申しきけても、決して来てはなりません。ここは人間の来る処ではないのだから。――また誰も参らぬように。
図書 いや、私《わたくし》が参らぬ以上は、五十万石の御家中、誰一人参りますものはございますまい。皆|生命《いのち》が大切でございますから。
夫人 お前は、そして、生命は欲しゅうなかったのか。
図書 私《わたくし》は、仔細《しさい》あって、殿様の御不興を受け、お目通《めどおり》を遠ざけられ閉門の処、誰もお天守へ上《あが》りますものがないために、急にお呼出しでございました。その御上使は、実は私《わたくし》に切腹仰せつけの処を、急に御模様がえになったのでございます。
夫人 では、この役目が済めば、切腹は許されますか。
図書 そのお約束でございました。
夫人 人の生死《いきしに》は構いませんが、切腹はさしたくない。私は武士の切腹は嫌いだから。しかし、思い掛《がけ》なく、お前の生命《いのち》を助けました。……悪い事ではない。今夜はいい夜《よ》だ。それではお帰り。
図書 姫君。
夫人 まだ、居ますか。
図書 は、恐入ったる次第ではございますが、御姿を見ました事を、主人に申まして差支えはございませんか。
夫人 確《たしか》にお言いなさいまし。留守でなければ、いつでも居るから。
図書 武士の面目に存じます――御免。
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雪洞《ぼんぼり》を取って静《しずか》に退座す。夫人|長煙管《ながぎせる》を取って、払《はた》く音に、図書板敷にて一度|留《とど》まり、直ちに階子《はしご》の口
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