つるぎ》の峰からあはれなる顔を出して、うろ/\媼《おうな》を求めたが、其の言《ことば》に従はず、故《ことさ》らに死地《しち》に就《つ》いたを憎んだか、最《も》う影も形も見えず、推量と多く違《たが》はず、家も床《ゆか》も疾《とく》に消えて、唯《ただ》枯野《かれの》の霧の黄昏《たそがれ》に、露《つゆ》の命の男女《ふたり》也《なり》。目を瞑《ねむ》ると、声を掛け、
「しかし客人、死を惜《おし》む者は殺さぬが又|掟《おきて》だ、予《あらかじ》め聞かう、主《ぬし》ある者と恋を為遂《しと》げるため、死を覚悟か。」
稍《やや》激しく。
「婦人《おんな》は?」
「はい。」と呼吸《いき》の下で答へたが、頷《うなず》くやうにして頭《つむり》を垂れた。
「可《よ》し。」
改めて、
「御身《おんみ》は。」
諾《だく》と答へようとした、謂《い》ふまでもない、此《この》美人は譬《たと》ひ今は世に亡《な》き人にもせよ、正《まさ》に自分の恋人に似て居るから。
けれども、譬《たと》ひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、可怪《おかし》、枯野《かれの》の妖魔が振舞《ふるまい》、我とともに死なんといふもの、恐らく案山子《かかし》を剥《は》いだ古蓑《ふるみの》の、徒《いたずら》に風に煽《あお》るに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげに頭《かしら》を掉《ふ》つた。
「殿、不実な男であります、婦人《おんな》は覚悟をしましたに、生命《いのち》を助かりたいとは、あきれ果てた未練者《みれんもの》、目の前でずた/\に婦人《おんな》を殺して見せつけてくれませう。」
「待て。」
「は。」
「客人が、世を果敢《はかな》んで居るうちは、我々の自由であるが、一度《ひとたび》心を入交《いれか》へて、恁《かか》る処《ところ》へ来るなどといふ、無分別《むふんべつ》さへ出さぬに於ては、神仏《しんぶつ》おはします、父君《ちちぎみ》、母君《ははぎみ》おはします洛陽《らくよう》の貴公子、むざとしては却《かえ》つて冥罰《みょうばつ》が恐《おそろ》しい。婦人《おんな》は斬《き》れ! 然《しか》し客人は丁寧にお帰し申せ。」
「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しく扶《たす》け起したものがある、其が身に接した時、湿つた木《こ》の葉《は》の薫《かおり》がした。
腰のあたり、膝《ひざ》のあたり、跪《ひざまず》いて塵《ちり》を払ひくれる者もあつた。
銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、弱々《よわよわ》と取つて提《ひっさ》げて、胸を抱いて見返ると、縞《しま》の膝を此方《こなた》にずらして、紅《くれない》の衣《きぬ》の裏、ほのかに男を見送つて、分《わかれ》を惜《おし》むやうであつた。
桂木は倒れようとしたが、踵《くびす》をめぐらし、衝《つ》と背後向《うしろむき》になつた、霧の中から大きな顔を出したのは、逞《たくま》しい馬で。
これを片手で、かい退《の》けて、それから足を早めたが、霧が包んで、蹄《ひづめ》の音、とゞろ/\と、送るか、追ふか、彼《か》の停車場《ステエション》のあたりまで、四|間《けん》ばかり間《あわい》を置いてついて来た。
来た時のやうに立停《たちどま》つて又、噫《ああ》、妖魔にもせよ、と身を棄《す》てて一所《いっしょ》に殺されようかと思つた。途端に騎馬が引返《ひきかえ》した。其の間《あわい》遠ざかるほど、人数《にんず》を増《ま》して、次第に百騎、三百騎、果《はて》は空吹く風にも聞え、沖を大浪《おおなみ》の渡るにも紛《まご》うて、ど、ど、ど、ど、どツと野末《のずえ》へ引いて、やがて山々へ、木精《こだま》に響いたと思ふと止《や》んだ。
最早、天地、処《ところ》を隔《へだ》つたやうだから、其のまゝ、銃孔《じゅうこう》を高くキラリと揺《ゆ》り上げた、星|一《ひと》ツ寒く輝く下に、路《みち》も迷はず、夜《よる》になり行く狭霧《さぎり》の中を、台場《だいば》に抜けると点燈頃《ひともしごろ》。
山家《やまが》の茶屋の店さきへ倒れたが、火の赫《かっ》と起つた、囲炉裡《いろり》に鉄網《てつあみ》をかけて、亭主、女房、小児《こども》まじりに、餅《もち》を焼いて居る、此の匂《におい》をかぐと、何《ど》ういふものか桂木は人間界へ蘇生《よみがえ》つたやうな心持《こころもち》がしたのである。
汽車がついたと見えて、此処《ここ》まで聞ゆるは、のんきな声、お弁当は宜《よろ》し、お鮨《すし》はいかゞ。……
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
1903(明治36)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
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