《かが》め、胸を張り、手でこするが如くにし、外《と》の方《かた》を覗《のぞ》いたが、
「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方《こちら》の方から雲が出て、そろ/\両方から歩行《あよ》びよつて、一所《ひとつ》になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄《としより》には何より恐しうござるわいの。」
「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中《そこらじゅう》へ染込《しみこ》んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼《ばあ》さん。」
「はい、御難儀《ごなんぎ》でござつたろ。」
「お邪魔《じゃま》ですが此処《ここ》を借ります。」
桂木は足袋《たび》を脱ぎ、足の爪尖《つまさき》を取つて見たが、泥にも塗《まみ》れず、綺麗《きれい》だから、其のまゝ筵《むしろ》の上へ、ずいと腰を。
たとひ洗足《せんそく》を求めた処《ところ》で、媼《おうな》は水を汲《く》んで呉《く》れたか何《ど》うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹《おざさ》を風が渡るかと……音につれて積る白糸《しらいと》。
三
桂木は濡《ぬ》れた上衣《うわぎ》を脱ぎ棄《す》てた、カラアも外《はず》したが、炉のふちに尚《なお》油断なく、
「あゝ、腹が空《す》いた。最《も》う/\降るのと溜《たま》つたので濡れ徹《とお》つて、帽子から雫《しずく》が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵《むしろ》が一枚ありや極楽、其処《そこ》で寝たいと思つたけれど、恁《こ》うしてお世話になつて雨露《あめつゆ》が凌《しの》げると、今度は虫が合点《がってん》しない、何《なん》ぞ食べるものはありませんか。」
「然《さ》ればなう、恐《おそろ》し気《げ》な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分《ころ》には、客も少々はござつたで、瓜《うり》なと剥《む》いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私《わし》が食《たべ》る分ばかり、其も黍《きび》を焚《た》いたのぢやほどに、迚《とて》もお口には合ふまいぞ。」
「否《いいえ》、飯《めし》は持つてます、何《ど》うせ、人里《ひとざと》のないを承知だつたから、竹包《たけづつみ》にして兵糧《ひょうろう》は持参ですが、お菜《さい》にするものがないんです、何か些《ちっ》と分けて貰《もら》ひたいと思ふんだがね。」
媼《おうな》は胸を折つてゆるやかに打頷《うちうなず》き、
「それならば待たしやませ、塩《しょ》ツぱいが味噌漬《みそづけ》の香《こう》の物がござるわいなう。」
「待ちたまへ、味噌漬なら敢《あえ》てお手数《てすう》に及ぶまいと思ひます。」
と手早《てばや》く笹《ささ》の葉を解《ほど》くと、硬《こわ》いのがしやつちこばる、包《つつみ》の端を圧《おさ》へて、草臥《くたび》れた両手をつき、畏《かしこま》つて熟《じっ》と見て、
「それ、言はないこツちやない、果して此の菜《さい》も味噌漬だ。お媼《ばあ》さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干《うめぼし》を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然《そ》うなのかね、」と顔を上げて又|瞻《みまも》つたが、恁《かか》る相好《そうごう》の媼《おうな》を見たのは、場末の寄席《よせ》の寂《せき》として客が唯《ただ》二三の時、片隅《かたすみ》に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪《たきぎ》を背負《しょ》つて歩行《ある》いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
媼は皺《しわ》だらけの面《つら》の皺も動かさず、
「何《ど》うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層《いっそ》のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」
「然《そ》う、」とばかり見詰《みつ》めて居た。
此時《このとき》気《け》だるさうにはじめて振向《ふりむ》き、
「あのまた霧の毒といふものは恐《おそろ》しいものでなう、お前様、今日は彼《あれ》が雨になつたればこそ可《よ》うござつた、ものの半日も冥土《よみじ》のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命《いのち》を取られいでから三月《みつき》四月《よつき》煩《わずら》うげな、此処《ここ》の霧は又|格別《かくべつ》ぢやと言ふわいなう。」
「あの、霧が、」
「お客様、お前さま、はじめて此処《ここ》を歩行《ある》かつしやるや?」
桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込《のみこ》み、
「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」
「然《そ》うぢやろ、然うぢやろ。」と媼《おうな》はまた頷《うなず》いたが、単《ただ》然《そ》うであらうではなく、正《まさ》に然《そ》うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
「而《そ》して何かの、お前様|其《そ》の鉄砲を打つて歩行《ある》かしやるでござるかの。」と糸を繰《く》る手を両方に開《
前へ
次へ
全14ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング