》し難《がた》き品位があつた。其の尖《とんが》つた顋《あぎと》のあたりを、すら/\と靡《なび》いて通る、綿《わた》の筋の幽《かすか》に白きさへ、やがて霜《しも》になりさうな冷《つめた》い雨。
少年は炉《ろ》の上へ両手を真直《まっすぐ》に翳《かざ》し、斜《ななめ》に媼の胸のあたりを窺《うかご》うて、
「はあ其では、何か、他《ほか》に通るものがあるんですか。」
媼は見返りもしないで、真向《まっこう》正面に渺々《びょうびょう》たる荒野《あれの》を控へ、
「他《ほか》に通るかとは、何がでござるの。」
「否《いいえ》、今|謂《い》つたぢやないか、人の通る路《みち》は廻り/\蜒《うね》つて居るつて。だから聞くんですが、他《ほか》に何か歩行《ある》きますか。」
「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐《きつね》も犬も通りませいで。霧《きり》がかゝりや、歩《ある》かうず、雲が下《おり》りや、走《はし》らうず、蜈蚣《むかで》も潜《もぐ》れば蝗《いなご》も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧《かえり》みて打微笑《うちほほえ》む。
二
此の口からなら、譬《たと》ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処《ところ》もなし、又|然《そ》う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓|桂木氏《かつらぎし》、東京なる某《なにがし》学校の秀才で、今年夏のはじめから一種|憂鬱《ゆううつ》な病《やまい》にかゝり、日を経《ふ》るに従うて、色も、心も死灰《しかい》の如く、やがて石碑《いしぶみ》の下に形なき祭《まつり》を享《う》けるばかりになつたが、其の病の原因《もと》はと、渠《かれ》を能《よ》く知る友だちが密《ひそか》に言ふ、仔細あつて世を早《はよ》うした恋なりし人の、其の姉君《あねぎみ》なる貴夫人より、一挺《いっちょう》最新式の猟銃を賜《たま》はつた。が、爰《ここ》に差置《さしお》いた即是《すなわちこれ》。
武器を参らす、郊外に猟などして、自《みずか》ら励まし給《たま》へ、聞くが如き其の容体《ようだい》は、薬も看護《みとり》も効《かい》あらずと医師のいへば。但《ただし》御身《おんみ》に恙《つつが》なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠《こ》めた手紙を添へて、両三|日《にち》以前に御使者《ごししゃ》到来。
凭《よ》りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍《そば》にこれを受取ると、額《ひたい》に手を加ふること頃刻《けいこく》にして、桂木は猛然として立つたのである。
扨《さて》今朝《こんちょう》、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新|停車場《ステエション》で唯《ただ》一|人《にん》下《お》り立つて、朝霧《あさぎり》の濃《こま》やかな野中《のなか》を歩《ほ》して、雨になつた午《ご》の時《とき》過ぎ、媼《おうな》の住居《すまい》に駈《か》け込んだまで、未《ま》だ嘗《かつ》て一度も煙を銃身に絡《から》めなかつた。
桂木は其の病《や》まざる前《ぜん》の性質に復《ふく》したれば、貴夫人が情《なさけ》ある贈物に酬《むく》いるため――函嶺《はこね》を越ゆる時汽車の中で逢《あ》つた同窓の学友に、何処《どちら》へ、と問はれて、修善寺《しゅぜんじ》の方へ蜜月《みつづき》の旅と答へた――最愛なる新婚の婦《ふ》、ポネヒル姫の第一発は、仇《あだ》に田鴫《たしぎ》山鳩《やまばと》如きを打たず、願はくは目覚《めざま》しき獲物を提《ひっさ》げて、土産《みやげ》にしようと思つたので。
時ならぬ洪水、不思議の風雨《ふうう》に、隙《ひま》なく線路を損《そこな》はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場《ステエション》を更《か》へた位、殊《こと》に桂木の一《いっ》家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々《しばしば》易《やす》からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野《あれの》を跋渉《ばっしょう》して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手《あいて》が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃《ねらいうち》で射《い》て取らうと言ふのであるから。
霧も雲も歩行《ある》くと語つた、仔細ありげな媼《おうな》の言《ことば》を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解《と》きかける。
油断はしないが俯向《うつむ》いたまゝ、
「私は又《また》不思議な物でも通るかと思つて悚然《ぞっ》とした、お媼《ばあ》さん、此様《こん》な処《ところ》に一人で居て、昼間だつて怖《おそろ》しくはないのですか。」
桂木は疾《と》く媼の口の、炎でも吐《は》けよかしと、然《さ》り気《げ》なく誘ひかける。
媼は額《ひたい》の上に綿《わた》を引いて、
「何が恐《おそろ》しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼《おおかみ》より雨漏《あまもり》が恐しいと言ふわいの。」
と又《また》背を屈
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