が、ぱつちりと涼《すずし》い目を開《あ》けた。
「其は恁《こ》うぢやよ、一月《ひとつき》の余《よ》も前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、都《みやこ》風俗《ふうぞく》の、少《わか》い美しい嬢様が、唯《たっ》た一人《ひとり》景色を見い/\、此の野へござつて私《わし》が処《とこ》へ休ましやつたが、此の奥にの、何《なに》とも名の知れぬ古い社《やしろ》がござるわいの、其処《そこ》へお参詣《まいり》に行くといはつしやる。
 はて此の野は其のお宮の主《ぬし》の持物で、何をさつしやるも其の御心《みこころ》ぢや、聞かつしやれ。
 どんな願事《ねがいごと》でもかなふけれど、其かはり生命《いのち》を犠《にえ》にせねばならぬ掟《おきて》ぢやわいなう、何と又《また》世の中に、生命《いのち》が要《い》らぬといふ願《ねがい》があろか、措《お》かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
 いえ/\大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
 いや最《も》う、何《なに》も彼《か》も御存じで、婆《ばば》なぞが兎《と》や角《こ》ういふも恐多《おそれおお》いやうな御人品《ごじんぴん》ぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩行《ある》いたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其処《そこ》で帯を解《と》かつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長襦袢《ながじゅばん》の上へ袷《あわせ》一《ひと》ツ、身軽になつて、すら/\草の中を行かつしやる、艶々《つやつや》としたおつむりが、薄《すすき》の中へ隠れたまで送つてなう。
 それからは茅萱《ちがや》の音にも、最《も》うお帰《かえり》かと、待てど暮らせど、大方|例《いつも》のにへにならつしやつたのでござらうわいなう。私《わし》がやうな年寄《としより》にかけかまひはなけれどもの、何《なん》につけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る処《ところ》ではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。可《い》いかの、可《い》いかの。」と間《あい》を措《お》いて、緩《ゆる》く引張つてくゝめるが如くにいふ、媼《おうな》の言《ことば》が断々《たえだえ》に幽《かすか》に聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木《とめぎ》の薫《かおり》に又|恍惚《うっとり》。
 優しい暖かさが、身に染《し》みて、心から、草臥《くたび》れた肌を包むやうな、掻巻《かいまき》の情《なさけ》に半《なか》ば眼《まなこ》を閉ぢた。
 驚破《すわ》といへば、射《い》て落《おと》さんず心も失《う》せ、はじめの一念《いちねん》も疾《と》く忘れて、野《の》にありといふ古社《ふるやしろ》、其の怪《あやしみ》を聞かうともせず、目《ま》のあたりに車を廻すあからさまな媼《おうな》の形も、其のまゝ舁《か》き移すやうに席《むしろ》を彼方《あなた》へ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も犠《にえ》の仔細も、媼の素性《すじょう》も、野の状《さま》も、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の裡《うち》。
 却《かえ》つて爰《ここ》に人あるが如く、横に寝た肩に袖《そで》がかゝつて、胸にひつたりとついた胴抜《どうぬき》の、媚《なまめ》かしい下着の襟《えり》を、口を結んで熟《じっ》と見て、噫《ああ》、我が恋人は他《た》に嫁《か》して、今は世に亡《な》き人となりぬ。
 我も生命《いのち》も惜《おし》まねばこそ、恁《かか》る野にも来《きた》りしなれ、何《ど》うなりとも成るやうになつて止《や》め! 之《これ》も犠《にえ》になつたといふ、あはれな記念《かたみ》の衣《ころも》哉《かな》、としきりに果敢《はかな》さに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟許《えりもと》へ、颯《さっ》と冷《つめた》い風。
 枯野《かれの》の冷《ひえ》が一幅《ひとはば》に細く肩の隙《すき》へ入つたので、しつかと引寄せた下着の背《せな》、綿《わた》もないのに暖《あたたか》く二《に》の腕《うで》へ触れたと思ふと、足を包んだ裳《もすそ》が揺れて、絵の婦人《おんな》の、片膝《かたひざ》立てたやうな皺《しわ》が、袷《あわせ》の縞《しま》なりに出来て、しなやかに美しくなつた。
 ※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と見ると、女の俤《おもかげ》。

        十

 眉《まゆ》長く、瞳《ひとみ》黒く、色雪の如きに、黒髪の鬢《びん》乱れ、前髪の根も分《わか》るゝばかり鼻筋《はなすじ》の通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白歯《しらは》も見えた涙の顔に、得《え》も謂《い》はれぬ笑《えみ》を含んで、ハツとする胸に、媼《おうな》が糸を繰《く》る音とともに幽《かすか》に響いて、
「主《ぬし》のあるものですが、一所《いっしょ》に死んで下さいませんか。」と声
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