あるにあらず、無きにあらず、嘗《かつ》て我が心に覚えある言《こと》を引出すやうに確《たしか》に聞えた。
耳がぐわツと。
小屋が土台から一揺《ひとゆれ》揺れたかと覚えて、物凄《ものすさまじ》い音がした。
「姦婦《かんぷ》」と一喝《いっかつ》、雷《らい》の如く鬱《うつ》し怒《いか》れる声して、外《と》の方《かた》に呼ばはるものあり。此の声|柱《はしら》を動かして、黒燻《くろくすぶり》の壁、其の蓑《みの》の下、袷《あわせ》をかけてあつた処《ところ》、件《くだん》の巌形《いわおがた》の破目《やれめ》より、岸破《がば》と※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]倒《どうだお》しに裡《うち》へ倒れて、炉の上へ屏風《びょうぶ》ぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が交《まじ》つて※[#「火+發」、93−9]《ぱっ》と砂煙《すなけむり》が上《あが》つた。
ために、媼の姿が一時《いちじ》消えるやうに見えなくなつた時である。
桂木は弾《はじ》き飛ばされたやうに一|間《けん》ばかり、筵《むしろ》を彼方《あなた》へ飛び起きたが、片手に緊乎《しっかり》と美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに遑《いとま》あらず。
兎角《とかく》の分別《ふんべつ》も未《ま》だ出ぬ前、恐《おそろし》い地震だと思つて、真蒼《まっさお》になつて、棟《むね》を離れて遁《のが》れようとする。
門口《かどぐち》を塞《ふさ》いだやうに、眼を遮《さえぎ》つたのは毒霧《どくぎり》で。
彼《か》の野末《のずえ》に一流《ひとながれ》白旗《しらはた》のやうに靡《なび》いて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠野《こうや》、真白な綿《わた》で包まれたのは、いま遁《に》げようとすると殆《ほとん》ど咄嗟《とっさ》の間《かん》の事《こと》。
然《しか》も此の霧の中に、野面《のづら》を蹴《け》かへす蹄《ひづめ》の音、九《ここの》ツならず十《とお》ならず、沈んで、どうと、恰《あたか》も激流|地《ち》の下より寄せ来《く》る気勢《けはい》。
「遁《にが》すな。」
「女!」
「男!」
と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又|引返《ひっかえ》して唯《と》壁の崩《くずれ》を見ると、一団《ひとかたまり》の大《おおい》なる炎の形に破れた中は、おなじ枯野《かれの》の目も遙《はるか》に彼方《かなた》に幾百里《いくひゃくり》といふことを知らず、犇々《ひしひし》と羽目《はめ》を圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
朽葉色《くちばいろ》、灰、鼠《ねずみ》、焦茶《こげちゃ》、たゞこれ黄昏《たそがれ》の野の如き、霧の衣《ころも》を纏《まと》うたる、いづれも抜群の巨人である。中に一人《いちにん》真先《まっさき》かけて、壁の穴を塞《ふさ》いで居たのが、此の時、掻潜《かいくぐ》るやうにして、恐《おそろし》い顔を出した、面《めん》の大《おおき》さ、梁《はり》の半《なかば》を蔽《おお》うて、血の筋《すじ》走る金《きん》の眼《まなこ》にハタと桂木を睨《ね》めつけた。
思はず後居《しりい》に腰を突く、膝《ひざ》の上に真俯伏《まうつぶ》せ、真白な両手を重ねて、わなゝく髷《まげ》の根、頸《うなじ》さへ、あざやかに見ゆる美人の襟《えり》を、誰《た》が手ともなく無手《むんず》と取つて一拉《ひとひし》ぎ。
「あれ。」
と叫んだ声ばかり、引断《ひっちぎ》れたやうに残つて、袷《あわせ》はのけざまにずる/\と畳《たたみ》の上を引摺《ひきず》らるゝ、腋《わき》あけのあたり、ちら/\と、残《のこ》ンの雪も消え、目も消えて、裾《すそ》の端が飜《ひるが》へつたと思ふと、倒《さかしま》に裏庭へ引落《ひきおと》された。
「男は、」
「男は、」
と七《なな》ツ八《やつ》ツ入乱《いりみだ》れてけたゝましい跫音《あしおと》が駈《か》けめぐる。
「叱《しっ》!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の傍《かたわら》に引添《ひきそ》うたのは、再び目に見えた破家《あばらや》の媼《おうな》であつた、果《はた》せるかな、糸は其の手に無かつたのである。恁《かか》る時桂木の身は危《あや》ふしとこそ予言したれ、幸《さいわい》に怪しき敵の見出《みいだ》し得《え》ぬは、由《よし》ありげな媼が、身を以て桂木を庇《かば》ふ所為《せい》であらう。桂木はほツと一息《ひといき》。
「何処《どこ》へ遁《に》げた。」
「今|此処《ここ》に、」
「其処《そこ》で見た。」
と魂消《たまぎ》ゆる哉《かな》、詈《ののし》り交《かわ》すわ。
十一
恁《か》くてしばらくの間《あいだ》といふものは、轡《くつわ》を鳴らす音、蹄《ひづめ》の音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑々《ざつざつ》として物騒《ものさわ》がしく、此の破家《あばらや》の庭の
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