、可《よ》いわいの。
もつともぢや、お主《ぬし》さへ命がけで入つてござつたといふ処《ところ》、私《わし》がやうな起居《たちい》も不自由な老寄《としより》が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山《おばすてやま》というて、年寄《としより》を棄《す》てた名所さへある世の中ぢや、私《わたし》が世を棄《すて》て一人住んで居《お》つたというて、何で怪しう思はしやる。少《わか》い世捨人《よすてびと》な、これ、坊さまも沢山《たんと》あるではないかいの、まだ/\、死んだ者に信女《しんにょ》や、大姉《だいし》居士《こじ》なぞいうて、名をつける習《ならい》でござらうが、何で又、其の旅商人《たびあきうど》に婦人《おんな》が懸想《けそう》したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を伸《のば》して、皺《しわ》だらけの大《おおき》な手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手《ゆんで》は尚《なお》細長い綿《わた》から糸を吐《は》かせたまゝ、乳《ちち》のあたりに捧げて居た。
「第一まあ、先刻《さっき》から恁《こ》うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰《く》る手を下にも置かない、茶を一つ汲《く》んで呉《く》れず、焚火《たきび》だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼《ばあ》さん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、愛想《あいそ》のないものを、変化《へんげ》ぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛《かわい》らしいお方ぢやでの、私《わし》も内端《うちわ》のもてなしぢや、茶も汲《く》んで飲《あが》らうぞ、火も焚《た》いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「…………」桂木は返す言《ことば》は出なかつたが、恁《こ》う謂《い》はるれば謂はれるほど、却《かえ》つて怪しさが増すのであつたが。
爰《ここ》にいたりて自然の勢《いきおい》、最早|与《く》みし易《やす》からぬやうに覚《おぼ》ゆると同時に、肩も竦《すく》み、膝《ひざ》もしまるばかり、烈《はげ》しく恐怖の念が起つて、単《ひとえ》に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯《おく》れが生じて、迚《とて》も敵《てき》し難《がた》しと、断念をするとともに、張詰《はりつ》めた気も弛《ゆる》み、心も挫《くじ》けて、一斉《いっとき》にがつくりと疲労《つかれ》が出た。初陣《ういじん》の此の若武者《わかむしゃ》、霧に打たれ、雨に悩み、妖婆《ようば》のために取つて伏せられ、忍《しのび》の緒《お》をプツツリ切つて、
「最《も》う何《ど》うでも可《よ》うございます、私はふら/\して堪《たま》らない、殺されても可《い》いから少時《しばらく》爰《ここ》で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」
「おう/\可《い》いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮《きづかい》をさつしやることはないに、私《わし》が山猫の化けたのでも。」
「え。」
「はて魔の者にした処《ところ》が、鬼神《きじん》に横道《おうどう》はないといふ、さあ/\かたげて寝《やす》まつしやれいの/\。」
桂木はいふがまゝに、兎《と》も角《かく》も横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある処《ところ》へ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
「や、しばらく待たつしやれ。」
八
「お前様一枚脱いでなり、濡《ぬ》れたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張《やっぱり》内端《うちわ》ぢや、お前様立つて取らつしやれ、何《なに》なう、私《わし》がなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸《ちょっと》でも此の糸を切るが最後、お前様の身が危《あぶな》いで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又《ま》た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習《ならい》ぢや。よりもかゝらず、蜘蛛《くも》の糸より弱うても、私《わし》が居るから可《よ》いわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、被《か》けるものはの、他《ほか》にない、あつても気味が悪からうず、少《わか》い人には丁度《ちょうど》持つて来い、枯野《かれの》に似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
あゝ、いや、其の蓑《みの》ではないぞの、屏風《びょうぶ》を退《の》けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向《ふりむ》く方《かた》。
桂木は、古びた雨漏《あまもり》だらけの壁に向つて、衝《つ》と立つた、唯《と》見れば一領《いちりょう》、古蓑《ふるみの》が描ける墨絵《すみえ》の滝の如く、梁《うつばり》に掛《かか》つて居たが、見てはじめ
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