くり》といふことを知らず、犇々《ひしひし》と羽目《はめ》を圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
 朽葉色《くちばいろ》、灰、鼠《ねずみ》、焦茶《こげちゃ》、たゞこれ黄昏《たそがれ》の野の如き、霧の衣《ころも》を纏《まと》うたる、いづれも抜群の巨人である。中に一人《いちにん》真先《まっさき》かけて、壁の穴を塞《ふさ》いで居たのが、此の時、掻潜《かいくぐ》るやうにして、恐《おそろし》い顔を出した、面《めん》の大《おおき》さ、梁《はり》の半《なかば》を蔽《おお》うて、血の筋《すじ》走る金《きん》の眼《まなこ》にハタと桂木を睨《ね》めつけた。
 思はず後居《しりい》に腰を突く、膝《ひざ》の上に真俯伏《まうつぶ》せ、真白な両手を重ねて、わなゝく髷《まげ》の根、頸《うなじ》さへ、あざやかに見ゆる美人の襟《えり》を、誰《た》が手ともなく無手《むんず》と取つて一拉《ひとひし》ぎ。
「あれ。」
 と叫んだ声ばかり、引断《ひっちぎ》れたやうに残つて、袷《あわせ》はのけざまにずる/\と畳《たたみ》の上を引摺《ひきず》らるゝ、腋《わき》あけのあたり、ちら/\と、残《のこ》ンの雪も消え、目も消えて、裾《すそ》の端が飜《ひるが》へつたと思ふと、倒《さかしま》に裏庭へ引落《ひきおと》された。
「男は、」
「男は、」
 と七《なな》ツ八《やつ》ツ入乱《いりみだ》れてけたゝましい跫音《あしおと》が駈《か》けめぐる。
「叱《しっ》!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の傍《かたわら》に引添《ひきそ》うたのは、再び目に見えた破家《あばらや》の媼《おうな》であつた、果《はた》せるかな、糸は其の手に無かつたのである。恁《かか》る時桂木の身は危《あや》ふしとこそ予言したれ、幸《さいわい》に怪しき敵の見出《みいだ》し得《え》ぬは、由《よし》ありげな媼が、身を以て桂木を庇《かば》ふ所為《せい》であらう。桂木はほツと一息《ひといき》。
「何処《どこ》へ遁《に》げた。」
「今|此処《ここ》に、」
「其処《そこ》で見た。」
 と魂消《たまぎ》ゆる哉《かな》、詈《ののし》り交《かわ》すわ。

        十一

 恁《か》くてしばらくの間《あいだ》といふものは、轡《くつわ》を鳴らす音、蹄《ひづめ》の音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑々《ざつざつ》として物騒《ものさわ》がしく、此の破家《あばらや》の庭の
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