あるにあらず、無きにあらず、嘗《かつ》て我が心に覚えある言《こと》を引出すやうに確《たしか》に聞えた。
耳がぐわツと。
小屋が土台から一揺《ひとゆれ》揺れたかと覚えて、物凄《ものすさまじ》い音がした。
「姦婦《かんぷ》」と一喝《いっかつ》、雷《らい》の如く鬱《うつ》し怒《いか》れる声して、外《と》の方《かた》に呼ばはるものあり。此の声|柱《はしら》を動かして、黒燻《くろくすぶり》の壁、其の蓑《みの》の下、袷《あわせ》をかけてあつた処《ところ》、件《くだん》の巌形《いわおがた》の破目《やれめ》より、岸破《がば》と※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]倒《どうだお》しに裡《うち》へ倒れて、炉の上へ屏風《びょうぶ》ぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が交《まじ》つて※[#「火+發」、93−9]《ぱっ》と砂煙《すなけむり》が上《あが》つた。
ために、媼の姿が一時《いちじ》消えるやうに見えなくなつた時である。
桂木は弾《はじ》き飛ばされたやうに一|間《けん》ばかり、筵《むしろ》を彼方《あなた》へ飛び起きたが、片手に緊乎《しっかり》と美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに遑《いとま》あらず。
兎角《とかく》の分別《ふんべつ》も未《ま》だ出ぬ前、恐《おそろし》い地震だと思つて、真蒼《まっさお》になつて、棟《むね》を離れて遁《のが》れようとする。
門口《かどぐち》を塞《ふさ》いだやうに、眼を遮《さえぎ》つたのは毒霧《どくぎり》で。
彼《か》の野末《のずえ》に一流《ひとながれ》白旗《しらはた》のやうに靡《なび》いて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠野《こうや》、真白な綿《わた》で包まれたのは、いま遁《に》げようとすると殆《ほとん》ど咄嗟《とっさ》の間《かん》の事《こと》。
然《しか》も此の霧の中に、野面《のづら》を蹴《け》かへす蹄《ひづめ》の音、九《ここの》ツならず十《とお》ならず、沈んで、どうと、恰《あたか》も激流|地《ち》の下より寄せ来《く》る気勢《けはい》。
「遁《にが》すな。」
「女!」
「男!」
と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又|引返《ひっかえ》して唯《と》壁の崩《くずれ》を見ると、一団《ひとかたまり》の大《おおい》なる炎の形に破れた中は、おなじ枯野《かれの》の目も遙《はるか》に彼方《かなた》に幾百里《いくひゃ
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