、可《よ》いわいの。
 もつともぢや、お主《ぬし》さへ命がけで入つてござつたといふ処《ところ》、私《わし》がやうな起居《たちい》も不自由な老寄《としより》が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山《おばすてやま》というて、年寄《としより》を棄《す》てた名所さへある世の中ぢや、私《わたし》が世を棄《すて》て一人住んで居《お》つたというて、何で怪しう思はしやる。少《わか》い世捨人《よすてびと》な、これ、坊さまも沢山《たんと》あるではないかいの、まだ/\、死んだ者に信女《しんにょ》や、大姉《だいし》居士《こじ》なぞいうて、名をつける習《ならい》でござらうが、何で又、其の旅商人《たびあきうど》に婦人《おんな》が懸想《けそう》したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を伸《のば》して、皺《しわ》だらけの大《おおき》な手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手《ゆんで》は尚《なお》細長い綿《わた》から糸を吐《は》かせたまゝ、乳《ちち》のあたりに捧げて居た。
「第一まあ、先刻《さっき》から恁《こ》うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰《く》る手を下にも置かない、茶を一つ汲《く》んで呉《く》れず、焚火《たきび》だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼《ばあ》さん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、愛想《あいそ》のないものを、変化《へんげ》ぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛《かわい》らしいお方ぢやでの、私《わし》も内端《うちわ》のもてなしぢや、茶も汲《く》んで飲《あが》らうぞ、火も焚《た》いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「…………」桂木は返す言《ことば》は出なかつたが、恁《こ》う謂《い》はるれば謂はれるほど、却《かえ》つて怪しさが増すのであつたが。
 爰《ここ》にいたりて自然の勢《いきおい》、最早|与《く》みし易《やす》からぬやうに覚《おぼ》ゆると同時に、肩も竦《すく》み、膝《ひざ》もしまるばかり、烈《はげ》しく恐怖の念が起つて、単《ひとえ》に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯《おく》れが生じて、迚《とて》も敵《てき》し難《がた》しと、断念をするとともに、張詰《はりつ》めた
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