ものを背負《しょ》つて、方々国々を売つて歩行《ある》いて、此の野に行暮《ゆきく》れて、其の時|草《くさ》茫々《ぼうぼう》とした中に、五六本|樹立《こだち》のあるのを目当に、一軒家へ辿《たど》り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋《なんじゅう》の次第を話して、一晩泊めて貰《もら》ふとね、快く宿をしてくれて、何《ど》うして何《ど》うして行暮れた旅商人《たびあきうど》如きを、待遇《もてな》すやうなものではない、銚子《ちょうし》杯《さかずき》が出る始末、少《わか》い女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏《べにうら》の絹布《けんぷ》の夜具《やぐ》、枕頭《まくらもと》で佳《い》い薫《かおり》の香《こう》を焚《た》く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、恁《こ》ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の通《とお》つたもんだから、夢なら覚めるなと一夜《ひとや》明かした迄は可《よ》かつたさうだが。
翌日《あくるひ》になると帰さない、其晩《そのばん》女中が云ふには、お奥で館《やかた》が召しますつさ。
其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は何《ど》うも何とも気高い美しい婦人《おんな》ださうだ。しかし何分《なにぶん》生胆《いきぎも》を取られるか、薬の中へ錬込《ねりこ》まれさうで、恐《こわ》さが先に立つて、片時も目を瞑《ねむ》るわけには行《ゆ》かなかつた。
私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」
五
桂木は伸びて手首を蔽《おお》はんとする、襯衣《しゃつ》の袖《そで》を捲《ま》き上げたが、手も白く、戦《たたかい》を挑《いど》むやうではない優《おとな》しやかなものであつた、けれども、世に力あるは、却《かえ》つて恁《かか》る少年の意を決した時であらう。
「さあ、館《やかた》の心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も葎《むぐら》を分けて、ぎいと開《あ》け、障子も雨戸も開放《かいほう》して、真昼間《まっぴるま》、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、然《さ》も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の縁《えん》へふたつに別れて、二人の其の侍女《こしもと》が、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳数《たたみかず》十五|畳《じょう》も敷けようといふ、広い座敷に唯《たった》一人
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