《ある》くうちに汗を流した。
場所は言うまい。が、向うに森が見えて、樹の茂った坂がある。……私が覚えてからも、むかし道中の茶屋|旅籠《はたご》のような、中庭を行抜《ゆきぬ》けに、土間へ腰を掛けさせる天麩羅茶漬《てんぷらちゃづけ》の店があった。――その坂を下《お》りかかる片側に、坂なりに落込《おちこ》んだ空溝《からみぞ》の広いのがあって、道には破朽《やぶれく》ちた柵《さく》が結《ゆ》ってある。その空溝を隔てた、葎《むぐら》をそのまま斜違《はすか》いに下《おり》る藪垣《やぶがき》を、むこう裏から這《は》って、茂って、またたとえば、瑪瑙《めのう》で刻んだ、ささ蟹《がに》のようなスズメの蝋燭が見つかった。
つかまえて支えて、乗出《のりだ》しても、溝に隔てられて手が届かなかった。
杖《ステッキ》の柄《え》で掻寄《かきよ》せようとするが、辷《すべ》る。――がさがさと遣《や》っていると、目の下の枝折戸《しおりど》から――こんな処《ところ》に出入口があったかと思う――葎戸《むぐらど》の扉を明けて、円々《まるまる》と肥った、でっぷり漢《もの》が仰向《あおむ》いて出た。きびらの洗いざらし、漆紋《うるしもん》の兀《は》げたのを被《き》たが、肥って大《おおき》いから、手足も腹もぬっと露出《むきで》て、ちゃんちゃんを被《はお》ったように見える、逞《たく》ましい肥大漢《でっぷりもの》の柄《がら》に似合わず、おだやかな、柔和な声して、
「何か、おとしものでもなされたか、拾ってあげましょうかな。」
と言った。四十くらいの年配である。
私は一応|挨拶《あいさつ》をして、わけを言わなければならなかった。
「ははあ、ごんごんごま、……お薬用《やくよう》か、何か禁厭《まじない》にでもなりますので?」
とにかく、路傍《みちばた》だし、埃《ほこり》がしている。裏の崖境《がけざかい》には、清浄《きれい》なのが沢山あるから、御休息かたがた。で、ものの言いぶりと人のいい顔色《かおつき》が、気を隔《お》かせなければ、遠慮もさせなかった。
「丁《ちょう》ど午睡時《ひるねどき》、徒然《とぜん》でおります。」
導かるるまま、折戸《おりど》を入ると、そんなに広いと言うではないが、谷間の一軒家と言った形で、三方が高台の森、林に包まれた、ゆっくりした荒れた庭で、むこうに座敷の、縁《えん》が涼しく、油蝉《あぶらぜみ》の中に閑寂《しずか》に見えた。私はちょっと其処《そこ》へ掛けて、会釈で済ますつもりだったが、古畳で暑くるしい、せめてのおもてなしと、竹のずんど切《ぎり》の花活《はないけ》を持って、庭へ出直すと台所の前あたり、井戸があって、撥釣瓶《はねつるべ》の、釣瓶《つるべ》が、虚空へ飛んで猿のように撥《は》ねていた。傍《かたわら》に青芒《あおすすき》が一叢《ひとむら》生茂《おいしげ》り、桔梗《ききょう》の早咲《はやざき》の花が二、三輪、ただ初々《ういうい》しく咲いたのを、莟《つぼみ》と一枝、三筋ばかり青芒を取添《とりそ》えて、竹筒《たけづつ》に挿して、のっしりとした腰つきで、井戸から撥釣瓶《はねつるべ》でざぶりと汲上《くみあ》げ、片手の水差《みずさし》に汲んで、桔梗に灌《そそ》いで、胸はだかりに提《さ》げた処《ところ》は、腹まで毛だらけだったが、床《とこ》へ据えて、円い手で、枝ぶりをちょっと撓《た》めた形は、悠揚《ゆうよう》として、そして軽い手際《てぎわ》で、きちんと極《きま》った。掛物《かけもの》も何も見えぬ。が、唯《ただ》その桔梗の一輪が紫の星の照らすように据《すわ》ったのである。この待遇のために、私は、縁《えん》を座敷へ進まなければならなかった。
「麁茶《そちゃ》を一つ献じましょう。何事も御覧の通りの侘住居《わびずまい》で。……あの、茶道具を、これへな。」
と言うと、次の間《ま》の――崖《がけ》の草のすぐ覗く――竹簀子《たけすのこ》の濡縁《ぬれえん》に、むこうむきに端居《はしい》して……いま私の入った時、一度ていねいに、お時誼《じぎ》をしたまま、うしろ姿で、ちらりと赤い小さなもの、年紀《とし》ごろで視《み》て勿論《もちろん》お手玉ではない、糠袋《ぬかぶくろ》か何ぞせっせと縫《ぬ》っていた。……島田髷《しまだ》の艶々《つやつや》しい、きゃしゃな、色白《いろじろ》な女が立って手伝って、――肥大漢《でっぷりもの》と二人して、やがて焜炉《こんろ》を縁側へ。……焚《たき》つけを入れて、炭を継《つ》いで、土瓶《どびん》を掛けて、茶盆を並べて、それから、扇子《おおぎ》ではたはたと焜炉の火口《ひぐち》を煽《あお》ぎはじめた。
「あれに沢山《たくさん》ございます、あの、茂りました処《ところ》に。」
「滝でも落ちそうな崖です――こんな町中に、あろうとは思われません。御閑静で実に結構です。霧が湧《わ》いたように見えますのは。」
「烏瓜《からすうり》でございます。下闇《したやみ》で暗がりでありますから、日中から、一杯咲きます。――あすこは、いくらでも、ごんごんごまがございますでな。貴方《あなた》は何とかおっしゃいましたな、スズメの蝋燭《ろうそく》。」
これよりして、私は、茶の煮える間《ま》と言うもの、およそこの編《へん》に記《しる》した雀の可愛さをここで話したのである。時々|微笑《ほほえ》んでは振向《ふりむ》いて聞く。娘か、若い妻か、あるいは妾《おもいもの》か。世に美しい女の状《さま》に、一つはうかうか誘《さそ》われて、気の発奮《はず》んだ事は言うまでもない。
さて幾度か、茶をかえた。
「これを御縁に。」
「勿論かさねまして、頃日《このごろ》に。――では、失礼。」
「ああ、しばらく。……これは、貴方《あなた》、おめしものが。」
……心着《こころづ》くと、おめしものも気恥《きはずか》しい、浴衣《ゆかた》だが、うしろの縫《ぬい》めが、しかも、したたか綻《ほころ》びていたのである。
「ここもとは茅屋《あばらや》でも、田舎道ではありませんじゃ。尻端折《しりばしょり》……飛んでもない。……ああ、あんた、ちょっと繕《つくろ》っておあげ申せ。」
「はい。」
すぐに美人が、手の針は、まつげにこぼれて、目に見えぬが、糸は優しく、皓歯《しらは》にスッと含まれた。
「あなた……」
「ああ、これ、紅《あか》い糸で縫えるものかな。」
「あれ――おほほほ。」
私がのっそりと突立《つッた》った裾《すそ》へ、女の脊筋《せすじ》が絡《まつわ》ったようになって、右に左に、肩を曲《くね》ると、居勝手《いがって》が悪く、白い指がちらちら乱れる。
「恐縮です、何ともどうも。」
「こう三人と言うもの附着《くッつ》いたのでは、第一|私《わし》がこの肥体《ずうたい》じゃ。お暑さが堪《たま》らんわい。衣服《きもの》をお脱ぎなさって。……ささ、それが早い。――御遠慮があってはならぬ――が、お身に合いそうな着替《きがえ》はなしじゃ。……これは、一つ、亭主が素裸《すはだか》に相成《あいな》りましょう。それならばお心安い。」
きびらを剥《は》いで、すっぱりと脱ぎ放《はな》した。畚褌《もっこふどし》の肥大裸体《でっぷりはだか》で、
「それ、貴方《あなた》。……お脱ぎなすって。」
と毛むくじゃらの大胡座《おおあぐら》を掻く。
呆気《あっけ》に取られて立《たち》すくむと、
「おお、これ、あんた、あんたも衣《き》ものを脱ぎなさい。みな裸体《はだか》じゃ。そうすればお客人の遠慮がのうなる。……ははははは、それが何より。さ、脱ぎなさい脱ぎなさい。」
串戯《じょうだん》にしてもと、私は吃驚《びっくり》して、言《ことば》も出ぬのに、女はすぐに幅狭《はばぜま》な帯を解いた。膝へ手繰《たぐ》ると、袖《そで》を両方へ引落《ひきおと》して、雪を分けるように、するりと脱ぐ。……膚《はだ》は蔽《おお》うたよりふっくりと肉を置いて、脊筋《せすじ》をすんなりと、撫肩《なでがた》して、白い脇を乳《ちち》が覗《のぞ》いた。それでも、脱ぎかけた浴衣《ゆかた》をなお膝に半ば挟《はさ》んだのを、おっ、と這《は》うと、あれ、と言う間《ま》に、亭主がずるずると引いて取った。
「はははは。」
と笑いながら。
既にして、朱鷺色《ときいろ》の布一重《ぬのひとえ》である。
私も脱いだ。汗は垂々《たらたら》と落ちた。が、憚《はばか》りながら褌《ふんどし》は白い。一輪の桔梗《ききょう》の紫の影に映《は》えて、女はうるおえる玉のようであった。
その手が糸を曳《ひ》いて、針をあやつったのである。
縫えると、帯をしめると、私は胸を折るようにして、前のめりに木戸口へ駈出《かけだ》した。挨拶は済ましたが、咄嗟《とっさ》のその早さに、でっぷり漢《もの》と女は、衣《きもの》を引掛《ひっか》ける間もなかったろう……あの裸体《はだか》のまま、井戸の前を、青すすきに、白く摺《す》れて、人の姿の怪《あや》しい蝶《ちょう》に似て、すっと出た。
その光景は、地獄か、極楽か、覚束《おぼつか》ない。
「あなた……雀さんに、よろしく。」
と女が莞爾《にっこり》して言った。
坂を駈上《かけあが》って、ほっと呼吸《いき》を吐《つ》いた。が、しばらく茫然として彳《たたず》んだ。――電車の音はあとさきに聞えながら、方角が分らなかった。直下の炎天に目さえくらむばかりだったのである。
時に――目の下の森につつまれた谷の中から、一《いっ》セイして、高らかに簫《しょう》の笛が雲の峯に響いた。
……話の中に、稽古《けいこ》の弟子も帰ったと言った。――あの主人は、簫を吹くのであるか。……そういえば、余りと言えば見馴れない風俗《ふう》だから、見た目をさえ疑うけれども、肥大漢《でっぷりもの》は、はじめから、裸体《はだか》になってまで、烏帽子《えぼし》のようなものをチョンと頭にのせていた。
「奇人だ。」
「いや、……崖下《がけした》のあの谷には、魔窟があると言う。……その種々《いろいろ》の意味で。……何しろ十年ばかり前には、暴風雨《あらし》に崖くずれがあって、大分、人が死んだ処《ところ》だから。」――
と或《ある》友だちは私に言った。
炎暑、極熱のための疲労《つかれ》には、みめよき女房の面《おもて》が赤馬《あかうま》の顔に見えたと言う、むかし武士《さむらい》の話がある。……霜《しも》が枝に咲くように、汗――が幻を描いたのかも知れない。が、何故《なぜ》か、私は、……実を言えば、雀の宿にともなわれたような思いがするのである。
かさねてと思う、日をかさねて一月《ひとつき》にたらず、九月|一日《いちにち》のあの大地震であった。
「雀たちは……雀たちは……」
火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、真夜半《まよなか》かけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天《なんてん》の根に、ひびも入《い》らずに残った手水鉢《ちょうずばち》のふちに、一羽、ちょんと伝っていて、顔を見て、チイと鳴いた。
後に、密《そっ》と、谷の家を覗《のぞ》きに行った。近づくと胸は轟《とどろ》いた。が、ただ焼原《やけはら》であった。
私は夢かとも思う。いや、雀の宿の気がする。……あの大漢《おおおとこ》のまる顔に、口許《くちもと》のちょぼんとしたのを思え。卯《う》の毛で胡粉《ごふん》を刷《は》いたような女の膚《はだ》の、どこか、頤《あぎと》の下あたりに、黒いあざはなかったか、うつむいた島田髷《しまだ》の影のように――
おかしな事は、その時|摘《つ》んで来たごんごんごまは、いつどうしたか定かには覚えないのに、秋雨《あきさめ》の草に生えて、塀を伝っていたのである。
「どうだい、雀。」
知らぬ顔して、何にも言わないで、南天燭《なんてん》の葉に日の当る、小庭に、雀はちょん、ちょんと遊んでいる。
底本:「鏡花短篇集」川村二郎編、岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二七卷」岩波書店
1942(昭和17)年10月
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
200
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング