ようであった。
 その手が糸を曳《ひ》いて、針をあやつったのである。
 縫えると、帯をしめると、私は胸を折るようにして、前のめりに木戸口へ駈出《かけだ》した。挨拶は済ましたが、咄嗟《とっさ》のその早さに、でっぷり漢《もの》と女は、衣《きもの》を引掛《ひっか》ける間もなかったろう……あの裸体《はだか》のまま、井戸の前を、青すすきに、白く摺《す》れて、人の姿の怪《あや》しい蝶《ちょう》に似て、すっと出た。
 その光景は、地獄か、極楽か、覚束《おぼつか》ない。
「あなた……雀さんに、よろしく。」
 と女が莞爾《にっこり》して言った。
 坂を駈上《かけあが》って、ほっと呼吸《いき》を吐《つ》いた。が、しばらく茫然として彳《たたず》んだ。――電車の音はあとさきに聞えながら、方角が分らなかった。直下の炎天に目さえくらむばかりだったのである。
 時に――目の下の森につつまれた谷の中から、一《いっ》セイして、高らかに簫《しょう》の笛が雲の峯に響いた。
 ……話の中に、稽古《けいこ》の弟子も帰ったと言った。――あの主人は、簫を吹くのであるか。……そういえば、余りと言えば見馴れない風俗《ふう》だから、見た
前へ 次へ
全41ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング