ん》は似たりしが、今夜は額を破るのでない。
「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走《ちそう》に猿を舞わいて見せてくれ。恥辱《はじ》ではない。汝《わり》ゃ、丁稚《でっち》から飛上って、今夜から、大阪の旦那の一|人《にん》。旧《むかし》を忘れぬためという……取立てた主人の訓戒《いましめ》と思え。
呼べ、と言えば、婦《おんな》どもが愚図《ぐず》々々|吐《ぬか》す。新枕《にいまくら》は長鳴鶏《ながなきどり》の夜《よ》があけるまでは待かねる。
主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。汝《わり》ゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿|負背《おんぶ》で、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、汝《われ》も食いおった、行帰りから、その娘は馴染《なじみ》じゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る婦《おんな》どもが知った中。
田畝《たんぼ》の鼠が、蝙蝠《こうもり》になった、その素袍《すおう》ひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。
かえって卑怯《ひきょう》じゃ。
遣《や》ってくれい。
が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。
残念な、猿太夫は斃《お》ちたとあるわい。
唄なと歌え、形なと見せおれ。
何|吐《ぬか》す、」
と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓《げいこ》を睨廻《ねめまわ》いて、
「やい、多一!」
二十七
「致します、致します。」
と呼吸《いき》を切って、
「皆さん御免なさりまし。」
多一はすっと衣紋《えもん》を扱《しご》いた。
浅葱《あさぎ》の素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。
その時、膝に手を支《つ》いて、
「……ま猿めでとうのう仕《つかまつ》る、踊るが手許《てもと》立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」
声を張った、扇拍子、畳を軽く拍《う》ちながら、「筑紫下りの西国船、艫《とも》に八|挺《ちょう》、舳《へ》に八挺、十六挺の櫓櫂《ろかい》を立てて……」
「やんややんや。ああ惜《おし》い、太夫が居《お》らぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴《こいつ》。ええ! 婆《ばば》どもでまけてやろう、古猿《こけざる》になれ、此奴等《こいつら》……立たぬな、おのれ。」
と立身上《たちみあが》りに、盞《さかずき》を取って投げると、杯洗《はいせん》の縁《ふち》にカチリと砕けて、颯《さっ》と欠《かけ》らが四辺《あたり》に散った。
色めき白ける燈《ともしび》に、一重瞼《ひとえまぶち》の目を清《すず》しく、美津は伏せたる面《おもて》を上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ[#「舞いまっせ」は底本では「舞いまつせ」]。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏《いちょう》の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下《あんた》、多一さんを虐《いじ》めんとおくれやす。
ちゃと隙《ひま》もろうて去《い》ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
と、襟の扇子を衝《つ》と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅《べに》、雪の狩衣|被《か》けながら、下萌《したも》ゆる血の、うら若草、萌黄《もえぎ》は難波《なにわ》の色である。
丸官は掌《こぶし》を握った。
多一の声は凜々《りんりん》として、
「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」
と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠《かす》れた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉《もみじ》の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦《すりがね》入れた後囃子《あとばやし》が、遥《はるか》に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢《けはい》。
が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とお寝《よ》るぞ、苫《とま》を敷寝に、苫を敷寝に楫枕《かじまくら》、楫枕。」
玉を伸べたる脛《はぎ》もめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕《たまくら》した。
その時は、別に変った様子もなかった。
多一が次第に、歯も軋《きし》むか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴《さ》ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
ト袖を捲いて、扇子《おうぎ》を翳《かざ》し、胸を反らして熟《じっ》と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬《またたさ》もせず※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ると斉《ひと》しく、笑靨《えくぼ》に颯《さっ》と影がさして、爪立《つまだ》つ足が震えたと思
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