口々に、
「御寮人様。」
「お珊様。」
「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」
「貴女ばかりを待兼ねてござります。」
襖の中から、
「車は?」
と静《しずか》に云う。
「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。
「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」
と声が凜《りん》とした。
黙って、すたすた、一同は廊下を引く。
とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。
多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠《つりかご》の、白玉椿《しらたまつばき》の葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。
襖がくれの半身で、廊下の後前《あとさき》を熟《じっ》と視《み》て、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の腕《かいな》が頸《うなじ》にかかると、倒れるように、ハタと膝を支《つ》いた、多一の唇に、俯向《うつむ》きざまに、衝《つ》と。――
丸官の座敷を、表に視《なが》めて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段《はしごだん》を颯《さっ》と下りる、とたちまち門《かど》へ姿が出た。
軒を離れて、俥《くるま》に乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下《うえした》に合すや否や、矢を射るような二人曳《ににんびき》。あれよ、あれよと云うばかり、廓《くるわ》の灯《ともし》に影を散らした、群集《ぐんじゅ》はぱっと道を分けた。
宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。
その年十月十九日、宝の市の最後の夜《よ》は、稚児《ちご》、市女《いちめ》、順々に、後圧《あとおさ》えの消防夫《しごとし》が、篝火《かがりび》赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目《わきめ》も触《ふ》らぬ婦《おんな》たちは、さもないが、真先《まっさき》に神輿《みこし》を荷《にの》うた白丁《はくちょう》はじめ、立傘《たてがさ》、市女笠《いちめがさ》持ちの人足など、頻《しき》りに気にしては空を視《なが》めた。
通り筋の、屋根に、廂《ひさし》に、しばしば鴉《からす》が鳴いたのである。
次第に数が増すと、まざまざと、薄月《うすづき》の曇った空に、嘴《くちばし》も翼も見えて、やがては、練《ねり》ものの上を飛交わす。
列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴《からすなき》を聞いた、と後で云う。……
二十六
「宗八《そっぱ》、宗八《そっぱ》。」
浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟《つめえり》の紺の洋服、高胡坐《たかあぐら》、座にある幇間《ほうかん》を大音に呼ぶ。
「はッ、」
「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押《あとおし》で駈着《かけつ》けて、今帰った処じゃな。」
「御意にござります、へい。」
「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈《てはず》じゃった、猿は、留木《とまりぎ》から落ちて縁の下へ半分|身体《からだ》を突込《つッこ》んで、斃死《くたばっ》ていたげに云う……嘘でないな。」
「実説正銘にござりまして、へい。餅屋|店《みせ》では、爺《じじい》の伝五めに、今夜、貴方様《あなたさま》、お珊の方様、」
と額を敲《たた》いて、
「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お好《このみ》とあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに――ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣《あきす》にござります。
処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食《あくじき》がないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて斃《お》ち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」
「うむ。」
と苦切《にがりき》って頷《うなず》きながら、
「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。
一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏《ひれふ》していたのである。
これより先、余り御無体、お待ちや、などと、慌《あわただ》しい婦《おんな》まじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上《おどりあが》って、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の閏《ねや》へ押寄せた。
襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の帳《とばり》にも蔽《おお》われず、指貫《さしぬき》やなど、烏帽子の紐《ひも》も解かないで、屏風《びょうぶ》の外に、美津は多一の膝に俯《ふ》し、多一は美津の背《せな》に額を附けて、五人囃子の雛《ひな》二個《ふたつ》、袖を合せたようであった。
揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。
「酒|啖《くら》え、意気地なし!」
で、有無を言わせず、表二階へ引出された。
欄干の緋《ひ》の毛氈《もうせ
前へ
次へ
全26ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング