、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木《すりこぎ》とか、獣《けだもの》めとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏《いちょう》の下の芸人に疑いない。
となると!……あの、婦《おんな》はなお済まないぜ。
自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管《きせる》で打《ぶ》たれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」
「煙管で、へい?……」
「ああ、垂々《たらたら》と血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。
まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓《げいこ》一統、互《たがい》にほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその徒《てあい》だって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出《あらわ》になるまで、石頭の拷問《ごうもん》に掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。
可《よ》しさ、それも。
と、そこへ、酒|肴《さかな》、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷《まげ》に結《い》った仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。
さすがに、御寮人は、頭《かぶり》をちょっと振って受けなかった。
それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃《みの》から近江《おうみ》、こちらの桟敷に溢《あふ》れてる大きなお臀《しり》を、隣から手を伸《のば》して猪口《ちょく》の縁《ふち》でコトコトと音信《おとづ》れると、片手で簪《かんざし》を撮《つま》んで、ごしごしと鬢《びん》の毛を突掻《つッか》き突掻き、ぐしゃりと挫《ひしゃ》げたように仕切に凭《もた》れて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後《うしろ》へ伸ばして、猪口を引傾《ひっかたむ》けたまま受ける、注《つ》ぐ、それ、溢《こぼ》す。(わややな、)と云う。
そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに始《はじま》ったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。
しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、皆《みんな》が夢中で遣る事なんだ。
憎いのは一人|狂犬《やまいぬ》さ。
やっと静まったと思う間もない。
(酒か、)と喚《わめ》くと、むくむくと起《おき》かかって、引担《ひっかつ》ぐような肱《ひじ》の上へ、妾の膝で頭を載せた。
(注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫《かっくら》う処へ、……色の白い、ちと纎弱《ひよわ》い、と云った柄さ。中脊の若いのが、縞《しま》の羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと支《つ》いた。
(何や、)と一ツ突慳貪《つッけんどん》に云って睨《にら》みつけたが、低声《こごえ》で、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸《いき》をしながら、目を瞑《ねむ》って、真仰向けに聞いたもんです。
(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然《はっきり》ぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と嘲《あざ》けるような、あの、凄《すご》い笑顔《わらいがお》。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を顰《しか》めて、唇を引結《ひんむす》ぶと、グウグウとまた鼾《いびき》を掻出す。
いや、しばらく起きない。
若手代は、膝へ手を支《つ》いたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向《うつむ》いたッきり。女連は、芝居に身が入《い》って言《ことば》も掛けず。
その中《うち》に幕が閉《しま》った。
満場わッと鳴って、ぎっしり詰《つま》ったのが、真黒《まっくろ》に両方の廊下へ溢れる。
しばらくして、大分|鎮《しず》まった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足《いそぎあし》になる往来《ゆきき》の中を、また竹の扉《ひらき》からひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。
(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」
十一
「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女《ふとっちょ》の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女《あんた》、極《きまり》が悪いやろ。そしたら私《わし》が方へ来て食《あが》りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々《にこにこ》笑う、気の可《い》い男さ。(太《えら》いお邪魔にござります。)と、屈《かが》んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退《ひきさが》った。
娘がね、仕切に手を支《つ》くと、向直って、抜いた花簪《はなかんざし》を載せている、涙に濡れた、細《ほっそ》り畳んだ手拭《てぬぐい》を置いた、友染の前垂れの
前へ
次へ
全26ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング