膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽《あお》ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
私は煙草《たばこ》がなくなったから、背後《うしろ》の運動場《うんどうば》へ買いに出た。
余り見かねたから、背後《うしろ》向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬《やまいぬ》はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直《すわりなお》している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入《い》った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
風は冷《つめた》し、呼吸《いき》ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫《ふ》かしながら、堅い薄縁《うすべり》の板の上を、足袋の裏|冷々《ひやひや》と、快《い》い心持で辷《すべ》らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違《はすかい》に薄暗い便所が見えます。
そのね、手水鉢《ちょうずばち》の前に、大《おおき》な影法師見るように、脚榻《きゃたつ》に腰を掛けて、綿の厚い寝《ね》ン寝子《ねこ》で踞《うずくま》ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、裟婆気《しゃばっけ》な駕籠屋でした。」
「まったくだね、股引《ももひき》の裾をぐい、と端折《はしょ》った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧《おし》に打たれて、猫背にへたへたと滅入込《めいりこ》んで、臍《へそ》から頤《おとがい》が生えたようです。
十四五枚も、堆《うずたか》く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭《てふ》きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰《つぶ》れた古無尽《ふるむじん》の帳面の亡者にそっくり。
一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
小さな銀貨を一個《ひとつ》握《にぎ》らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有《ありがと》、難有、難有、)と懐中《ふところ》へ頤《あご》を突込《つッこ》んで礼をするのが、何となく、ものの可哀《あわれ》が身に染みた。
その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡《いねむ》りか、と思うと悶《もが》いたんだ。仰向《あおむ》けに反《そ》って、両手の握拳《にぎりこぶし》で、肩を敲《たた》こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
うん、と云う。
や、老人《としより》の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座《げざ》の三味線《さみせん》が、ト手首を口へ取って、湿《しめり》をくれたのが、ちらりと見える。
どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
突然《いきなり》、爺様《じいさん》の背中へ掴《つか》まると、手水鉢の傍《わき》に、南天の実の撓々《たわたわ》と、霜に伏さった冷い緋鹿子《ひがのこ》、真白《まっしろ》な小腕《こがいな》で、どんつくの肩をたたくじゃないか。
青苔《あおごけ》の緑青《ろくしょう》がぶくぶく禿《は》げた、湿った貼《のり》の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸《よっかか》って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐《なつかし》く熟《じっ》と視《み》た。
そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻《さるまわし》。」
十二
「急いで手拭を懐中《ふところ》へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》した、……私は書割の山の陰に潜《ひそ》んでいたろう。
誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣《おしや》って、手代が自分で、爺様《じいさん》の肩を敲《たた》き出した。
二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
と唐突《だしぬけ》に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は旅行《たび》をした効《かい》があると思った。
声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯《き》かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷《うなず》く風でね、老年《としより》を勦《いたわ》る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉《ひらき》を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
私も帰った。
間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖《けんぺき》は解《ほぐ》れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝《つきひざ》、以前《
前へ
次へ
全26ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング